武学拾粋抄録 / 武士之起本・武家の台頭と鎌倉幕府の成立
國々の團練司も詣る兵無ければ繰練も絶えて行はれざるに依り何と無く罷めに成り、武家の私兵のみに成行きたる故、國々の次第を頒ち、二三年宛交代して京都に登り宿衞するを王番の役と云ひ、其在番する所を指して武者所とも侍所とも云ふ、斯の如く武家は累代其所を知行し、被官多く持ち、國司は四年限の任なれば自ら國司の威勢薄く政令行はれず姑息の政のみにて、苟も四箇年の內さへ無事なれば後は如何樣にても貪着無き故、武家の輩私鬪して人民を殺害しても大方は見ぬ振し、已むこと無きときは京都に達し刑部省の判斷を請ひても明法博士の考にて流罪に遇ふ迄也、故に彌武家は橫行し國司の柔弱を蔑如し、其時代にて名有る武將に屬し、其餘威を假りて鎭安す、是源平鬪亂の萌にして一朝一夕の事に非ず、前右兵衞佐賴朝流人の身として義兵を發し平族を倒し、征夷將軍總追捕使に押上り、天下の武士を總べ司り、國々に守護を置き莊園に地頭を置き悉く掌握に歸す、是我朝制度の一大變也、然れども猶國々に國司在て定額の朝貢をば奉り、朝命武命二ながら行はれしが、承久の亂元弘の戰より國司を止めて守護のみに成、
新字:国々の団練司も詣る兵無ければ繰練も絶えて行はれざるに依り何と無く罷めに成り、武家の私兵のみに成行きたる故、国々の次第を頒ち、二三年宛交代して京都に登り宿衛するを王番の役と云ひ、其在番する所を指して武者所とも侍所とも云ふ、斯の如く武家は累代其所を知行し、被官多く持ち、国司は四年限の任なれば自ら国司の威勢薄く政令行はれず姑息の政のみにて、苟も四箇年の内さへ無事なれば後は如何様にても貪着無き故、武家の輩私闘して人民を殺害しても大方は見ぬ振し、已むこと無きときは京都に達し刑部省の判断を請ひても明法博士の考にて流罪に遇ふ迄也、故に弥武家は横行し国司の柔弱を蔑如し、其時代にて名有る武将に属し、其余威を仮りて鎮安す、是源平闘乱の萌にして一朝一夕の事に非ず、前右兵衛佐頼朝流人の身として義兵を発し平族を倒し、征夷将軍総追捕使に押上り、天下の武士を総べ司り、国々に守護を置き荘園に地頭を置き悉く掌握に帰す、是我朝制度の一大変也、然れども猶国々に国司在て定額の朝貢をば奉り、朝命武命二ながら行はれしが、承久の乱元弘の戦より国司を止めて守護のみに成、
書き下し
國々の團練司も詣る兵無ければ繰練も絶えて行はれざるに依り何と無く罷めに成り、武家の私兵のみに成行きたる故、國々の次第を頒ち、二三年宛交代して京都に登り宿衞するを王番の役と云ひ、其在番する所を指して武者所とも侍所とも云ふ、斯の如く武家は累代其所を知行し、被官多く持ち、國司は四年限の任なれば自ら國司の威勢薄く政令行はれず姑息の政のみにて、苟も四箇年の內さへ無事なれば後は如何樣にても貪着無き故、武家の輩私鬪して人民を殺害しても大方は見ぬ振し、已むこと無きときは京都に達し刑部省の判斷を請ひても明法博士の考にて流罪に遇ふ迄也、故に彌武家は橫行し國司の柔弱を蔑如し、其時代にて名有る武將に屬し、其餘威を假りて鎭安す、是源平鬪亂の萌にして一朝一夕の事に非ず、前右兵衞佐賴朝流人の身として義兵を發し平族を倒し、征夷將軍總追捕使に押上り、天下の武士を總べ司り、國々に守護を置き莊園に地頭を置き悉く掌握に歸す、是我朝制度の一大變也、然れども猶國々に國司在て定額の朝貢をば奉り、朝命武命二ながら行はれしが、承久の亂元弘の戰より國司を止めて守護のみに成、
現代語訳
国々の団練司も、訪れる兵がいないので訓練も途絶えて行われず、いつとはなしにやめになり、武家の私兵だけになりました。そこで国々の順番を分け、二、三年ずつ交代して京都に上り宿衛することを王番の役といい、その在番する所を武者所とも侍所とも言います。このように武家は代々その所を知行し、被官を多く持ち、一方で国司は四年限りの任なので国司の威勢は自然と薄く、政令も行われず、その場しのぎの政治ばかりで、とにかく四年の間さえ無事ならば後はどうなっても執着しないので、武家の輩は私闘して人民を殺害しても大方は見ない振りをし、やむを得ないときは京都に届けて刑部省の判断を仰いでも、明法博士の考えで流罪になる程度でした。そのためますます武家は横行し、国司の柔弱を軽んじ、その時代で名のある武将に属して、その余威を借りて(地方を)鎮め安んじました。これが源平闘乱の萌しで、一朝一夕のことではありません。前右兵衛佐頼朝は流人の身として義兵を起こし、平氏の一族を倒し、征夷将軍・総追捕使に昇り、天下の武士を統べ司り、国々に守護を置き、荘園に地頭を置いて、ことごとく掌握しました。これは我が朝の制度の一大変化です。しかしなお国々には国司がいて定額の朝貢を奉り、朝命と武命の二つがともに行われましたが、承久の乱・元弘の戦いから国司を廃して守護だけになり、
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『政談』國の締り一篇の發端の事総して国の治めと云ふは、譬へば碁盤の目を盛るが如し、目を盛らざる盤にては、何ほどの上手にても碁はうたれぬなり、洪水を静むるには、川筋を付るなり、川筋を付ざれば、禹王再び生れ出たまふとも、水を静むることは叶はざるなり、当時火災の事上の御世話にて塗屋土蔵造に成りたれば、火災自然と少なし、是明かなる証拠なり、其外の御政務には、此訳を申し立る人なきにや、是によりて和漢の古法を考へ愚案の量見を左に記す、
-
『政談』右四册大意の事右四册の物語りに瑣細なるまでを記したることは、当時は法の立てやう未熟にて、大なる所に法立たず、末に計り法立ちてある故世界に締り無く、風俗ひたものに移り行き、今は法は法にて有りながら、下は下にて別々になりて、法も詮無きことに成りたることを知らせ奉らんためなり、当時のことなど見及び聞及びたる争などを少々書きたるは、定めて承はり違ひもあるべし、又愚按の違ひもあるべし、政治の道はひきつはなれたることにあらず、世の成行世界の全体を知し召すこと肝要なり、肝心の所は世界旅宿の境界なると、諸事の制度なきと、此二つに帰することなり、是によりて、戸籍を立て万民を住所に有付ると、町人百姓と武家と制度の差別を立ると、大名の家に制度を立ると御買上と云ことの之なきやうにすると、大体是にて世界はすぐなをり豊かに成るへし、
-
『政談』諸色直段の事偖又用ゆるもの多き故に高直になる、此用ゆる者多きは制度なきより起れり、元来貴き人は善きものを用ひ、賤きものは悪きものを用ゆるときは、物各々其宜きを得るゆゑ諸色高直にはならぬを、今は賤き者まても善きものを用ゆると云は如何やうの事なれは、御城下に来集る民は素は田舎のものにて、麦粟種等の雑穀を食し、濁酒を飲み、味噌をも食せす、すくも火を焼き、麻木綿を織て着し、席薦の上に寝臥をしたるものか、心儘に御城下に来住する故、米味噌を食し、薪を焼き、炭の火にあたり、衣服も買整へて着し、善酒を飲み、田舎に之なき障子を立て、天井を張り、唐紙を張り、畳を敷き、蚊屋を釣るなとすることは、ぼていふりも皆斯の如し、少しも善き町人は衣服食事家居器物まても金さへあれは大名と同しことにて誰れ制する者なし、是諸物の用ゆる人多き故諸色の高直なること尤なり、
-
尉繚子・制談此くの如くんば、戦ひ勝つと雖も国益々弱く、地を得るも国益々貧しきは、国中の制弊るるに由るなり。
-
『墨子』尚同中子墨子曰く、方今の時の正長は、則ち本より古者と異なれり。之を譬うるに量るに五刑を以てするが若く然り。昔者、聖王は制して五刑を為り、以て天下を治む。有苗の五刑を制するに逮び至りては、以て天下を亂る。則ち此れ豈に刑の不善ならんや。刑を用うること則ち不善なるなり。是を以て先王の書、呂刑の道いて曰く、「苗民、練を用いず、折くに則ち刑し、唯だ五殺の刑を作り、法と曰う」と。則ち此れ善く刑を用うる者は以て民を治め、善く刑を用いざる者は以て五殺と為すを言う。則ち此れ豈に刑の不善ならんや。刑を用うること則ち不善なり、故に遂に以て五殺と為す。是を以て先王の書、術令の道いて曰く、「惟れ口は好を出だし戎を興す」と。則ち此れ善く口を用うる者は好を出だし、善く口を用いざる者は以て讒賊冦戎と為すを言う。則ち此れ豈に口の不善ならんや。口を用うること則ち不善なり、故に遂に以て䜛賊冦戎と為す。
-
『政談』當時制度之なき事兼て制度を立てゝこれを安くするときは人々知る故分に過ぎたる奢りは自からなくて世上に費へなし、制度なければ上より奢りをするなと制し玉ふと云ふとも、是までが分相応にて是より上か奢りなりと云ふ「キツカケ」なけれはすへきやうなし、華美を好むは人情の常なる故制度なき故に世は次第に奢りに成行くなり、衣服の制度ある時は是は大名是は大役高官の人と云ふ事坐敷の上にても自から知るゝ故、人々貴きを敬ひ儀式自から乱れさるに、上一人より下は民までも何れも小袖を着上下を着ること同様にて、其衣服の地は金さへあれは何を着ても誰制する人なし、上下の見分けなき故高官大役の人下のものと別の立てやうなく、唯々いかつかましき体をして是にて高下を別のことに成り、我か身の君子の礼儀を失ふことをは知らず、御役人奉行なとの無礼甚しく、下たるものは礼に過ぎて這ひ屈み、諂ふ風俗甚しきも制度なきか故なり、