武学拾粋抄録 / 序・序文に説く太平の世の武備と備え
止戈爲武。是武之盛也。本邦以武爲俗。自古而然。造 幕府之秉鈞。撫懷群雄。戡定禍亂。以開丕々之基。今則累洽之化溢於四域者。二百有餘年。其爲武德。於戲可謂懿且盛矣。然人々狃治安赴奢靡。滔々忘反。其佩雙刀稱武士者。亦或有不知干戈爲何用者。是則勢之不得不然。而有志者之所以慨焉而過慮也。高遠之爲藩也。蟠居於峻峰巨嶽之間。風氣醇厚。人物剛健。其於武事。淬厲講習未嘗輟也。往者藩有阪本天山者。武而兼文。以敎督子弟。其門人星野葛山能傳其學。葛山嘗慨昇平之久。武道之或衰也。裒其所自得者。編爲一部。命曰武學拾粹。凡爲士者。自平居戒警。以至戰陣隊伍之際。條分節解。靡不縷述。其有裨益於士人也不爲淺少。然而葛山不幸壯歲而歿。抑亦可惜矣。近者藩侯視此編而賞之。命葛山子純著梓之。因賜資若干。將以頒授藩子弟也。嗚呼可謂厚矣。易曰。君子安而不忘危。存而不忘亡。治而不忘亂。是以身安而國家可保也。今讀此編者。有能得於玆。則葛山之志展。而侯之意協矣。剞劂告成。使余敘其端。乃書此以復。嘉永三年歲次庚戌季夏月大學頭 林健撰
新字:止戈為武。是武之盛也。本邦以武為俗。自古而然。造 幕府之秉鈞。撫懐群雄。戡定禍乱。以開丕々之基。今則累洽之化溢於四域者。二百有余年。其為武徳。於戯可謂懿且盛矣。然人々狃治安赴奢靡。滔々忘反。其佩双刀称武士者。亦或有不知干戈為何用者。是則勢之不得不然。而有志者之所以慨焉而過慮也。高遠之為藩也。蟠居於峻峰巨嶽之間。風気醇厚。人物剛健。其於武事。淬厲講習未嘗輟也。往者藩有阪本天山者。武而兼文。以教督子弟。其門人星野葛山能伝其学。葛山嘗慨昇平之久。武道之或衰也。裒其所自得者。編為一部。命曰武学拾粋。凡為士者。自平居戒警。以至戦陣隊伍之際。条分節解。靡不縷述。其有裨益於士人也不為浅少。然而葛山不幸壮歳而歿。抑亦可惜矣。近者藩侯視此編而賞之。命葛山子純著梓之。因賜資若干。将以頒授藩子弟也。嗚呼可謂厚矣。易曰。君子安而不忘危。存而不忘亡。治而不忘乱。是以身安而国家可保也。今読此編者。有能得於玆。則葛山之志展。而侯之意協矣。剞劂告成。使余敘其端。乃書此以復。嘉永三年歳次庚戌季夏月大学頭 林健撰
書き下し
戈を止むるを武と為す。是れ武の盛んなるなり。本邦は武を以て俗と為す。古より然り。幕府の秉鈞に造りて、群雄を撫懐し、禍乱を戡定し、以て丕々の基を開く。今則ち累洽の化、四域に溢るること、二百有余年。其の武徳たる、ああ懿にして且つ盛んと謂ふべし。然れども人々治安に狃れ奢靡に赴き、滔々として反ることを忘る。其の双刀を佩びて武士と称する者も、亦た或いは干戈の何の用たるかを知らざる者有り。是れ則ち勢ひの然らざるを得ざるなり。而して有志の者の慨然として過慮する所以なり。高遠の藩たるや、峻峰巨嶽の間に蟠居し、風気醇厚、人物剛健なり。其の武事に於けるや、淬厲講習、未だ嘗て輟まず。往者藩に阪本天山といふ者有り。武にして文を兼ね、以て子弟を教督す。其の門人星野葛山、能く其の学を伝ふ。葛山嘗て昇平の久しくして武道の或いは衰へんことを慨き、其の自得する所の者を裒めて、編みて一部と為し、命じて武学拾粋と曰ふ。凡そ士たる者、平居の戒警より、以て戦陣隊伍の際に至るまで、条分節解し、縷述せざる靡し。其の士人に裨益有るや浅少と為さず。然り而して葛山不幸にして壮歳にして歿す。抑も亦た惜しむべし。近者藩侯此の編を視て之を賞し、葛山の子純に命じて之を梓に著さしむ。因りて資若干を賜ふ。将に以て藩の子弟に頒授せんとするなり。嗚呼厚しと謂ふべし。易に曰く、君子は安けれども危ふきを忘れず、存すれども亡ぶるを忘れず、治まれども乱るるを忘れず。是を以て身安くして国家保つべきなり、と。今此の編を読む者、能く玆に得ること有らば、則ち葛山の志展び、而して侯の意協はん。剞劂成を告げ、余をして其の端に叙せしむ。乃ち此れを書して以て復す。嘉永三年歳は庚戌に次る季夏の月、大学頭林健撰す。
現代語訳
戈(ほこ)を止めることを武といいます。これが武の盛んな姿です。我が国は武を習俗としてきました。昔からそうです。幕府が政権を握るに及んで、群雄をなだめ従え、禍乱を平らげて、大きな基を開きました。いまや太平の教化が四方に満ちて二百年余り。その武徳は、ああ、美しく盛んというべきです。けれども人々は治安に慣れ、奢り怠けることに赴き、流れるままに本来に帰ることを忘れています。二本の刀を差して武士と称する者の中にも、武器が何のためのものかを知らない者がいます。これは勢いとしてやむを得ないことですが、志ある者が嘆いて心配する理由でもあります。高遠の藩は険しい峰や大きな山々の間にわだかまり、風気は醇朴で人物は剛健です。武事については、心身を励まし講習することを、これまで止めたことがありません。かつて藩に阪本天山という者がいました。武でありながら文を兼ね、子弟を教え導きました。その門人の星野葛山は、よくその学を伝えました。葛山は、泰平が久しく続いて武道が衰えるのではないかと嘆き、自ら得たところを集めて一部の書に編み、『武学拾粋』と名づけました。およそ士たる者について、平生の戒めから戦陣・隊伍の際に至るまで、条を分け節を解いて、詳しく述べないものはありません。士人に益するところは少なくありません。ところが葛山は不幸にも壮年で亡くなりました。まことに惜しいことです。近ごろ藩侯がこの書をご覧になって賞し、葛山の子の純に命じて出版させ、資金若干を賜りました。藩の子弟に分け授けようとのことです。ああ、手厚いことというべきです。『易』に「君子は安らかでも危ういことを忘れず、存していても亡ぶことを忘れず、治まっていても乱れることを忘れない。だから身は安らかで国家は保たれる」とあります。いまこの書を読む者が、ここから得るところがあれば、葛山の志は伸び、藩侯のお心にも適うでしょう。出版が成って、私にその冒頭に序を述べよとのことですので、これを書いてお返事とします。嘉永三年、庚戌の年の晩夏の月、大学頭の林健が撰しました。
解説

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