武学拾粋抄録 / 星野葛山傳・星野葛山の生涯と武学拾粋
葛山、姓は星野氏、名は常富、字は伯有、葛山は其號なり、信州高遠藩の世臣なり、寛政二年父の蔭を以て近習と爲る、十二年父致仕す、葛山秩を襲ぎ、後諸職を歷て、郡代に進む、然るに之を嫉む者あり、中つるに讒語を以てせしかば、之が爲遂に取次に貶せらる、後數年を經て、再び擢でられて側用人と爲り、伴讀を攝す、文化年中江戸に祇役す、疾に罹りて歿せり、葛山俊穎沈毅にして、幼より學を好み、曹務繁劇に在りと雖も、孜々として廢せず、經典を顯覈し、史書軍法律令國史の類に至るまで亦該通せざるなし、毎に士大夫の治平に狃れ、武備やゝ廢弛するを憂ひ、「武學拾粹」九卷を著はす、凡そ進退擊刺の法、兵甲器械の製と、夫の攫堅陷陣の要と、極めて精詳と爲す、又經界の制の明かならざるより貪吏因縁して姦を爲すを憂ひ、「田制考」一卷を著はす、其他著書若干あり、要は皆經濟有用を以て主と爲す、其郡代となるや、慨然として、風俗競澆、民日々愉慢に赴くを歎じ、務めて廉介敦樸の風を以て一時を勵ます、吏民之を畏敬す、又其朝に立つや、侃々直言して、いさゝか阿諛する所なし、是に由りて忌嫉を取り、遂に斥けらる、其伴讀を攝するや、引喩誠切、務めて啓沃を致せしかば、侯甚だ之を重んじ、葛山も益ゝ奮然匡弼を以て自ら任とせり、生卒年月明かならず、今井上哲次郎所藏の「武學拾粹」を抄錄す、佐藤一齋林壯軒之に序せり、併せ揭ぐ、
新字:葛山、姓は星野氏、名は常富、字は伯有、葛山は其号なり、信州高遠藩の世臣なり、寛政二年父の蔭を以て近習と為る、十二年父致仕す、葛山秩を襲ぎ、後諸職を歴て、郡代に進む、然るに之を嫉む者あり、中つるに讒語を以てせしかば、之が為遂に取次に貶せらる、後数年を経て、再び擢でられて側用人と為り、伴読を摂す、文化年中江戸に祇役す、疾に罹りて歿せり、葛山俊穎沈毅にして、幼より学を好み、曹務繁劇に在りと雖も、孜々として廃せず、経典を顕覈し、史書軍法律令国史の類に至るまで亦該通せざるなし、毎に士大夫の治平に狃れ、武備やゝ廃弛するを憂ひ、「武学拾粋」九巻を著はす、凡そ進退撃刺の法、兵甲器械の製と、夫の攫堅陥陣の要と、極めて精詳と為す、又経界の制の明かならざるより貪吏因縁して姦を為すを憂ひ、「田制考」一巻を著はす、其他著書若干あり、要は皆経済有用を以て主と為す、其郡代となるや、慨然として、風俗競澆、民日々愉慢に赴くを嘆じ、務めて廉介敦樸の風を以て一時を励ます、吏民之を畏敬す、又其朝に立つや、侃々直言して、いさゝか阿諛する所なし、是に由りて忌嫉を取り、遂に斥けらる、其伴読を摂するや、引喩誠切、務めて啓沃を致せしかば、侯甚だ之を重んじ、葛山も益ゝ奮然匡弼を以て自ら任とせり、生卒年月明かならず、今井上哲次郎所蔵の「武学拾粋」を抄録す、佐藤一斎林壮軒之に序せり、併せ掲ぐ、
書き下し
葛山、姓は星野氏、名は常富、字は伯有、葛山は其號なり、信州高遠藩の世臣なり、寛政二年父の蔭を以て近習と爲る、十二年父致仕す、葛山秩を襲ぎ、後諸職を歷て、郡代に進む、然るに之を嫉む者あり、中つるに讒語を以てせしかば、之が爲遂に取次に貶せらる、後數年を經て、再び擢でられて側用人と爲り、伴讀を攝す、文化年中江戸に祇役す、疾に罹りて歿せり、葛山俊穎沈毅にして、幼より學を好み、曹務繁劇に在りと雖も、孜々として廢せず、經典を顯覈し、史書軍法律令國史の類に至るまで亦該通せざるなし、毎に士大夫の治平に狃れ、武備やゝ廢弛するを憂ひ、「武學拾粹」九卷を著はす、凡そ進退擊刺の法、兵甲器械の製と、夫の攫堅陷陣の要と、極めて精詳と爲す、又經界の制の明かならざるより貪吏因縁して姦を爲すを憂ひ、「田制考」一卷を著はす、其他著書若干あり、要は皆經濟有用を以て主と爲す、其郡代となるや、慨然として、風俗競澆、民日々愉慢に赴くを歎じ、務めて廉介敦樸の風を以て一時を勵ます、吏民之を畏敬す、又其朝に立つや、侃々直言して、いさゝか阿諛する所なし、是に由りて忌嫉を取り、遂に斥けらる、其伴讀を攝するや、引喩誠切、務めて啓沃を致せしかば、侯甚だ之を重んじ、葛山も益ゝ奮然匡弼を以て自ら任とせり、生卒年月明かならず、今井上哲次郎所藏の「武學拾粹」を抄錄す、佐藤一齋林壯軒之に序せり、併せ揭ぐ、
現代語訳
葛山は姓を星野氏、名を常富、字を伯有といい、葛山はその号です。信州高遠藩の代々の家臣です。寛政二年、父の恩恵で近習となり、十二年に父が退くと禄を継ぎ、のちさまざまな職を経て郡代に進みました。ところがこれを妬む者がいて、讒言を浴びせたため、取次に降格されました。数年後に再び抜擢されて側用人となり、伴読(藩主の学問の相手)を兼ねました。文化年間、江戸に勤務に出て、病にかかって亡くなりました。葛山は聡明で沈着、意志が強く、幼いころから学問を好み、役所の務めが繁忙でもこつこつと怠りませんでした。経典を明らかに調べ、史書・軍法・律令・国史の類に至るまで通じていないものはありませんでした。常に、武士が太平に慣れて武備がやや衰えるのを憂い、『武学拾粋』九巻を著しました。進退や撃刺の法、兵器・甲冑の製作、堅い陣を攻め落とす要点を、きわめて詳しく述べています。また、田地の境界の制度が明らかでないため、貪欲な役人がそれに乗じて不正をするのを憂い、『田制考』一巻を著しました。その他の著書も若干あり、要するにみな世を治め民を救うのに役立つことを主としています。郡代になると、奮い立って、風俗が軽薄に競い、民が日々怠け緩んでいくのを嘆き、清廉で潔く誠実素朴な風で人々を励まそうと努めました。役人も民もこれを畏れ敬いました。また藩の政庁に立つときは、はばからず直言し、少しも媚びへつらうことがありませんでした。このために妬まれ、ついに退けられました。伴読を兼ねたときは、たとえを引いて誠実切実に、つとめて主君を啓き導いたので、藩主はたいへん重んじ、葛山もいよいよ奮い立って主君を正し助けることを自らの任としました。生没年月は明らかでありません。いま井上哲次郎所蔵の『武学拾粋』を抄録します。佐藤一斎と林壮軒がこれに序を書いており、あわせて掲げます。
解説

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『晏子春秋』外篇上・有獻書譖晏子退耕而國不治復召晏子晏子景公に相たり。其の人を論ずるや、賢を見ては之を進め、君の欲する所に同じからず。不善を見ては則ち廃し、君の愛する所を辟けず。己を行いて私無く、直言して諱む無し。書を納むる者有りて、曰く、「廃置君前に周からざる、之を専と謂い、言を出して君前に諱まざる、之を易と謂う。専易の行い存すれば、則ち君臣の道廃す。吾晏子の忠臣為るを知らず」と。公以て然りと為す。晏子朝に入るに、公の色説ばず。故に晏子帰り、載を備え、人をして辞せしめて曰く、「嬰は故より老悖にして能無し。敢えて壮者の事に服する毋し」と。辞して臣たらず、退きて窮処し、東のかた海浜に耕し、堂下に藜藿生じ、門外に荊棘生ず。七年、燕・魯分争し、百姓惛乱して、家に積む無し。公自ら国を治め、権は諸侯に軽く、身は高・国に弱し。公恐れ、復た晏子を召す。晏子至るに、公は一たび七年の禄を帰し、而して家に蔵する無し。晏子立つに、諸侯其の威を忌み、高・国其の政に服し、燕・魯職を貢し、小国時に朝す。晏子没して後に衰う。
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史記 袁盎鼂錯列伝然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
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『酔古堂剣掃』集峭・腸を翻し肚を倒にす口に隨ひ牙を利くし、天荒れ地老ゆるを顧みず;腸を翻し肚を倒にし、那ぞ鬼哭し神愁ふるを管せん。
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
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史記 汲鄭列伝黯人と為り性倨にして、礼少なく、面折し、人の過ちを容るること能はず。己に合ふ者は善く之を待ち、己に合はざる者は見るに忍ぶこと能はず、士も亦此を以て附かず。然れども学を好み、游侠し、気節に任じ、内行修絜にして、直諫を好み、数々主の顔色を犯し、常に傅柏・袁盎の人と為りを慕ふなり。灌夫・鄭当時及び宗正劉棄に善し。亦数々直諫するを以て、久しく位に居るを得ず。是の時に当たり、太后の弟武安侯蚡丞相為り、中二千石来たりて拝謁するに、蚡礼を為さず。然れども黯蚡に見ゆるに未だ嘗て拝せず、常に之に揖す。天子方に文学儒者を招く、上曰く吾云云せんと欲すと、黯対へて曰く、「陛下内に欲多くして外に仁義を施す、柰何ぞ唐虞の治に效はんと欲するや」と。上黙然として、怒り、色を変じて朝を罷む。公卿皆黯の為に懼る。上退き、左右に謂ひて曰く、「甚しいかな、汲黯の戇なるや」と。群臣或いは黯を数む、黯曰く、「天子公卿輔弼の臣を置くは、寧ろ従諛承意して、主を不義に陥れしめんや。且つ已に其の位に在り、縦ひ身を愛すとも、朝廷を辱むることを柰何せん」と。黯病多く、病且に三月に満たんとし、上常に告を賜ふこと数々なるも、終に愈えず。最後に病む、荘助為に告を請ふ。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。