武学啓蒙 / 跋・跋:父より賜り、同志の請いで世に出す
不肖靖趨庭、家大人顧賜啓蒙義一本、靖退而與二三同志俱讀、同志之士遂有公于世之請、大人辭而不許、再三而得之、靖及二三兄弟之喜可知、因謹一言、以跋云、享和二年壬戌冬十一月越前力丸靖大吉郎謹識
新字:不肖靖趨庭、家大人顧賜啓蒙義一本、靖退而与二三同志倶読、同志之士遂有公于世之請、大人辞而不許、再三而得之、靖及二三兄弟之喜可知、因謹一言、以跋云、享和二年壬戌冬十一月越前力丸靖大吉郎謹識
書き下し
不肖の靖、庭に趨る。家大人、啓蒙義一本を顧賜す。靖、退きて二三の同志と俱に読む。同志の士、遂に世に公にするの請有り。大人、辞して許さず。再三にして之を得たり。靖及び二三の兄弟の喜び知るべし。因りて謹んで一言し、以て跋と云ふ。享和二年壬戌冬十一月、越前の力丸靖大吉郎、謹んで識す。
現代語訳
不肖の私、靖が父の庭先を小走りに通りましたとき(父の前に進み出たとき)、父上は『啓蒙義』一本を下さいました。靖は退いて、二、三の同志とともにこれを読みました。同志の士は、ついに世に公にしてほしいと願い出ました。父上は辞退して許されませんでしたが、再三お願いしてようやく得ることができました。靖と二、三の兄弟の喜びは、推して知るべきです。そこで謹んで一言を記し、跋といたします。享和二年壬戌の冬十一月、越前の力丸靖(大吉郎)が謹んで記しました。
解説
著者の子、力丸靖が記した漢文の跋です。父から『啓蒙義』一本を賜り、二、三の同志と読むうちに、同志が世に公にしたいと願い出ましたが、父は辞して許さず、再三の願いでようやく得られたと述べます。末尾には享和二年冬十一月と記されます。成立の経緯が分かる貴重な記述で、優れた知見が周囲の求めによって広がる様子が見えます。管理職にとっても、自分のノウハウを内にとどめず、周囲に請われたら共有し、組織の知として残す姿勢が参考になります。

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『武学啓蒙』力丸東山跋力丸靖享和公刊
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