武学啓蒙 / 力丸東山傳・東山の人柄と子・著書
及び知人關龍輔(號攀龍、醫にして書家なり)に依り、古來の事情を具陳して、舊主に召抱へられんことを請へり、然れども終に允されず、已むなく又京師に歸り、益ゝ武道の講習を力めき、其生死年月明かならず、東山人と爲り亮直誠實、義氣慷慨、窮して益ゝ堅く、老いて益ゝ壯んに、大丈夫の風格を具へりといふ、一男あり、大吉郎之靖と稱し、白山と號す、三歲にして射術を能くし、復書を善くし、詩を作り、都門上下越前の神童と稱せり、寬政五年十一月、百發內通矢四十一、半堂百射の開基と爲りて、三十三間堂に奉額す、實に大吉郎齡纔に四歲の時なり、時人皆稱して力先生義氣節操の陽報なりと云へり、長じて後專ら家學を傳へて、子弟を薰陶せり、東山の著書、「武學啓蒙」を始め、「射學擧要」「古今堂射考」「兵法集覽」「武器考略」「力氏小射錄」(之靖四歲半堂射術之記)「力氏中射錄」(自四歲半堂至于九歲六十六間射術之記也)及び「東山先生文集」「同近縣紀行鈔」「同名勝詩纂」「人物志」等、其目載せて「武學啓蒙」の末尾に在り、然れども其の多くは未だ接手するに至らず、本書中「武學啓蒙」一卷を收載す、帝國圖書館の所藏に係り、刊本にして、大吉郎寫「士家心得」を附錄とす、而して此書一名を「武敎錄」と稱し、其の序文全く啓蒙に異り、橋本毛山之を作る、且つ「士家心得」を缺けり、本と版本として別に行はれたりしが如きも、今寫本として、有馬祐政之を藏す、此に其の序文を摘錄す、其他東山作る所の文に、「訓蒙圖彙」の序、「和漢年契」の題あり、以て其の文才あり、且つ一時に重んぜられしことを見るべく、又遺墨の間ゝ傳ふるあり、一時の能手と稱せられ、筆力の雄健なるを窺ふに足る、
新字:及び知人関竜輔(号攀竜、医にして書家なり)に依り、古来の事情を具陳して、旧主に召抱へられんことを請へり、然れども終に允されず、已むなく又京師に帰り、益ゝ武道の講習を力めき、其生死年月明かならず、東山人と為り亮直誠実、義気慷慨、窮して益ゝ堅く、老いて益ゝ壮んに、大丈夫の風格を具へりといふ、一男あり、大吉郎之靖と称し、白山と号す、三歳にして射術を能くし、復書を善くし、詩を作り、都門上下越前の神童と称せり、寛政五年十一月、百発内通矢四十一、半堂百射の開基と為りて、三十三間堂に奉額す、実に大吉郎齢纔に四歳の時なり、時人皆称して力先生義気節操の陽報なりと云へり、長じて後専ら家学を伝へて、子弟を薫陶せり、東山の著書、「武学啓蒙」を始め、「射学挙要」「古今堂射考」「兵法集覧」「武器考略」「力氏小射録」(之靖四歳半堂射術之記)「力氏中射録」(自四歳半堂至于九歳六十六間射術之記也)及び「東山先生文集」「同近県紀行鈔」「同名勝詩纂」「人物志」等、其目載せて「武学啓蒙」の末尾に在り、然れども其の多くは未だ接手するに至らず、本書中「武学啓蒙」一巻を収載す、帝国図書館の所蔵に係り、刊本にして、大吉郎写「士家心得」を附録とす、而して此書一名を「武教録」と称し、其の序文全く啓蒙に異り、橋本毛山之を作る、且つ「士家心得」を欠けり、本と版本として別に行はれたりしが如きも、今写本として、有馬祐政之を蔵す、此に其の序文を摘録す、其他東山作る所の文に、「訓蒙図彙」の序、「和漢年契」の題あり、以て其の文才あり、且つ一時に重んぜられしことを見るべく、又遺墨の間ゝ伝ふるあり、一時の能手と称せられ、筆力の雄健なるを窺ふに足る、
書き下し
及び知人關龍輔(號攀龍、醫にして書家なり)に依り、古來の事情を具陳して、舊主に召抱へられんことを請へり、然れども終に允されず、已むなく又京師に歸り、益ゝ武道の講習を力めき、其生死年月明かならず、東山人と爲り亮直誠實、義氣慷慨、窮して益ゝ堅く、老いて益ゝ壯んに、大丈夫の風格を具へりといふ、一男あり、大吉郎之靖と稱し、白山と號す、三歲にして射術を能くし、復書を善くし、詩を作り、都門上下越前の神童と稱せり、寬政五年十一月、百發內通矢四十一、半堂百射の開基と爲りて、三十三間堂に奉額す、實に大吉郎齡纔に四歲の時なり、時人皆稱して力先生義氣節操の陽報なりと云へり、長じて後專ら家學を傳へて、子弟を薰陶せり、東山の著書、「武學啓蒙」を始め、「射學擧要」「古今堂射考」「兵法集覽」「武器考略」「力氏小射錄」(之靖四歲半堂射術之記)「力氏中射錄」(自四歲半堂至于九歲六十六間射術之記也)及び「東山先生文集」「同近縣紀行鈔」「同名勝詩纂」「人物志」等、其目載せて「武學啓蒙」の末尾に在り、然れども其の多くは未だ接手するに至らず、本書中「武學啓蒙」一卷を收載す、帝國圖書館の所藏に係り、刊本にして、大吉郎寫「士家心得」を附錄とす、而して此書一名を「武敎錄」と稱し、其の序文全く啓蒙に異り、橋本毛山之を作る、且つ「士家心得」を缺けり、本と版本として別に行はれたりしが如きも、今寫本として、有馬祐政之を藏す、此に其の序文を摘錄す、其他東山作る所の文に、「訓蒙圖彙」の序、「和漢年契」の題あり、以て其の文才あり、且つ一時に重んぜられしことを見るべく、又遺墨の間ゝ傳ふるあり、一時の能手と稱せられ、筆力の雄健なるを窺ふに足る、
現代語訳
及び知人の関龍輔(号は攀龍、医者で書家)を通じて、古来の事情を詳しく述べ、旧主に召し抱えられることを願いました。しかし結局許されませんでした。やむなくまた京都に帰り、いよいよ武道の講習に努めました。その生没の年月は明らかではありません。東山は人柄が潔く正直で誠実、義気に富んで激しく、窮してますます堅く、老いてますます盛んで、大丈夫の風格を備えていたといいます。一男があり、大吉郎之靖と称し、白山と号しました。三歳で射術をよくし、また書をよくし、詩を作り、都の内外で越前の神童と称されました。寛政五年十一月、百発のうち通し矢四十一本で、半堂百射の開基となり、三十三間堂に奉額しました。実に大吉郎がわずか四歳のときでした。当時の人々は皆、力先生の義気と節操に対する陽報(目に見える報い)だと称しました。成長した後はもっぱら家学を伝えて子弟を薫陶しました。東山の著書は『武学啓蒙』をはじめ、『射学挙要』『古今堂射考』『兵法集覧』『武器考略』『力氏小射録』(之靖四歳半堂射術の記)『力氏中射録』(四歳半堂より九歳六十六間に至る射術の記)および『東山先生文集』『同近県紀行鈔』『同名勝詩纂』『人物志』などで、その目は『武学啓蒙』の末尾に載っていますが、その多くはまだ手にするに至っていません。本書には『武学啓蒙』一巻を収載します。帝国図書館の所蔵にかかり、刊本で、大吉郎が写した『士家心得』を附録としています。そしてこの書は一名を『武教録』といい、その序文は『啓蒙』とまったく異なり、橋本毛山がこれを作っています。また『士家心得』を欠いています。もとは版本として別に行われたようですが、今は写本として有馬祐政がこれを所蔵しています。ここにその序文を摘録します。そのほか東山の作った文に『訓蒙図彙』の序、『和漢年契』の題があり、それによって文才があり、一時に重んじられたことが分かります。また遺墨がときどき伝わり、一時の能手と称され、筆力の雄健なことがうかがえます。
解説

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