古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

武学啓蒙 / 力丸東山傳・力丸東山の出自と学問の歩み

東山、姓は力丸氏、名は之光、彈正と稱す、東山は其號なり、祖先藤左衞門、元和の頃、結城家の舊臣を以て、秀康公に越前に從ひ仕へ、祿八百石を食めり、貞享の頃四百石に減ぜられ、更に又左衞門と稱する者に至り、故ありて藩籍を削らる、時に越前侯八代目德正院宗矩の代なり、然れども力丸家は結城以來の舊臣なるが故に、宗矩特に其家の相續を欲し、血族中能く之に膺り得る者を求めらる、然るに當時又左衞門の祖父又左衞門の弟藤左衞門なる者の庶子一男ありしも、甚だ幼少なるの故を以て其の恩典に預ること能はずして已みぬ、其の一男後に同國阪井郡三國新保浦圓海寺の僧となり、丸龍と稱す、一子を生む、之を十郎左衞門武英と稱し、宗庵(又鎗菴)と號す、私かに士道に志して、深く武訓を重んじ、又武藝を磨きをれり、就中鎗術を好みたるもの、如し、是れ實に東山の父なり、東山越前の僻邑に生まれしと雖も、幼より學に志し、長ずるに及んで京師に流浪し、初め伏原氏に就きて古學を習ひ、傍ら那波魯堂の性理學を學び、兼ねて詩文を作り、且つ書道を究めて、大いに文辭を研磨し、著作に從事せしが、又夙に家學の武備を修めて、和漢の兵法を致究し、特に意を射術竝に水戰術に致せり、帷を白山街に下して、青松塾と稱し、文武兩道を以て人才の養成を務めたり、天明八年京師大火あり、其の經學詞章に關する著書の悉皆烏有と爲るや、纔然轍を改めて、唯武學是れ講じ、專ら兵法を以て士大夫に敎授せり、名聲籍甚、來りて其の門に研習する者頗る多く、搢紳華胄にして贄を執る者少からず、正に洛陽の一勢力たりしなり、寬政の末切すら家名の再興を圖りて福井に抵り、其の菩提寺運正寺主、

新字:東山、姓は力丸氏、名は之光、弾正と称す、東山は其号なり、祖先藤左衛門、元和の頃、結城家の旧臣を以て、秀康公に越前に従ひ仕へ、禄八百石を食めり、貞享の頃四百石に減ぜられ、更に又左衛門と称する者に至り、故ありて藩籍を削らる、時に越前侯八代目徳正院宗矩の代なり、然れども力丸家は結城以来の旧臣なるが故に、宗矩特に其家の相続を欲し、血族中能く之に膺り得る者を求めらる、然るに当時又左衛門の祖父又左衛門の弟藤左衛門なる者の庶子一男ありしも、甚だ幼少なるの故を以て其の恩典に預ること能はずして已みぬ、其の一男後に同国阪井郡三国新保浦円海寺の僧となり、丸竜と称す、一子を生む、之を十郎左衛門武英と称し、宗庵(又鎗菴)と号す、私かに士道に志して、深く武訓を重んじ、又武芸を磨きをれり、就中鎗術を好みたるもの、如し、是れ実に東山の父なり、東山越前の僻邑に生まれしと雖も、幼より学に志し、長ずるに及んで京師に流浪し、初め伏原氏に就きて古学を習ひ、傍ら那波魯堂の性理学を学び、兼ねて詩文を作り、且つ書道を究めて、大いに文辞を研磨し、著作に従事せしが、又夙に家学の武備を修めて、和漢の兵法を致究し、特に意を射術並に水戦術に致せり、帷を白山街に下して、青松塾と称し、文武両道を以て人才の養成を務めたり、天明八年京師大火あり、其の経学詞章に関する著書の悉皆烏有と為るや、纔然轍を改めて、唯武学是れ講じ、専ら兵法を以て士大夫に教授せり、名声籍甚、来りて其の門に研習する者頗る多く、搢紳華胄にして贄を執る者少からず、正に洛陽の一勢力たりしなり、寛政の末切すら家名の再興を図りて福井に抵り、其の菩提寺運正寺主、

書き下し

東山、姓は力丸氏、名は之光、彈正と稱す、東山は其號なり、祖先藤左衞門、元和の頃、結城家の舊臣を以て、秀康公に越前に從ひ仕へ、祿八百石を食めり、貞享の頃四百石に減ぜられ、更に又左衞門と稱する者に至り、故ありて藩籍を削らる、時に越前侯八代目德正院宗矩の代なり、然れども力丸家は結城以來の舊臣なるが故に、宗矩特に其家の相續を欲し、血族中能く之に膺り得る者を求めらる、然るに當時又左衞門の祖父又左衞門の弟藤左衞門なる者の庶子一男ありしも、甚だ幼少なるの故を以て其の恩典に預ること能はずして已みぬ、其の一男後に同國阪井郡三國新保浦圓海寺の僧となり、丸龍と稱す、一子を生む、之を十郎左衞門武英と稱し、宗庵(又鎗菴)と號す、私かに士道に志して、深く武訓を重んじ、又武藝を磨きをれり、就中鎗術を好みたるもの、如し、是れ實に東山の父なり、東山越前の僻邑に生まれしと雖も、幼より學に志し、長ずるに及んで京師に流浪し、初め伏原氏に就きて古學を習ひ、傍ら那波魯堂の性理學を學び、兼ねて詩文を作り、且つ書道を究めて、大いに文辭を研磨し、著作に從事せしが、又夙に家學の武備を修めて、和漢の兵法を致究し、特に意を射術竝に水戰術に致せり、帷を白山街に下して、青松塾と稱し、文武兩道を以て人才の養成を務めたり、天明八年京師大火あり、其の經學詞章に關する著書の悉皆烏有と爲るや、纔然轍を改めて、唯武學是れ講じ、專ら兵法を以て士大夫に敎授せり、名聲籍甚、來りて其の門に研習する者頗る多く、搢紳華胄にして贄を執る者少からず、正に洛陽の一勢力たりしなり、寬政の末切すら家名の再興を圖りて福井に抵り、其の菩提寺運正寺主、

現代語訳

東山は姓を力丸、名を之光といい、弾正と称しました。東山はその号です。祖先の藤左衛門は元和のころ、結城家の旧臣として秀康公に従って越前に仕え、禄八百石を受けました。貞享のころ四百石に減らされ、さらに又左衛門という者の代に、事情があって藩籍を削られました。そのとき越前侯は八代目の徳正院宗矩の代でした。しかし力丸家は結城以来の旧臣なので、宗矩は特にその家の相続を望み、血族の中でそれにふさわしい者を探されました。ところが当時、又左衛門の祖父又左衛門の弟である藤左衛門という者に庶子が一男いましたが、たいへん幼少であったためその恩典にあずかれずに終わりました。その一男は後に同国坂井郡三国新保浦の円海寺の僧となり、丸龍と称しました。一子を生み、これを十郎左衛門武英と称し、宗庵(また鎗菴)と号しました。ひそかに士道に志し、深く武訓を重んじ、また武芸を磨いており、なかでも槍術を好んだようです。これが実に東山の父です。東山は越前の僻村に生まれましたが、幼いころから学に志し、成長すると京都に流浪し、初め伏原氏について古学を習い、傍ら那波魯堂の性理学を学び、あわせて詩文を作り、また書道を究めて、大いに文辞を磨き、著作に従事しました。また早くから家学の武備を修め、和漢の兵法を究め、特に射術ならびに水戦術に意を注ぎました。白山街に塾を開いて青松塾と称し、文武両道で人材の養成に努めました。天明八年に京都に大火があり、経学・詞章に関する著書がことごとく焼失すると、たちまち方向を改め、ただ武学のみを講じ、もっぱら兵法を士大夫に教授しました。名声は盛んで、来て門下で学ぶ者がたいへん多く、縉紳・華胄で入門の礼物を執る者も少なくなく、まさに洛陽の一勢力でした。寛政の末、ひたすら家名の再興を図って福井に赴き、その菩提寺である運正寺の住職、(次へ続く)

解説

力丸東山の家系と前半生を述べる伝の冒頭です。越前の旧臣の家柄でありながら家が途絶えかけ、僻村に生まれた東山が京都で古学や性理学を修め、文武の塾を開いたことが分かります。大火で著書を失うと、たちまち方向を改めて兵法の教授に専念した点が目を引きます。管理職にとっても、築いたものを失ったときに嘆き続けず、強みを見極めて次の一手に集中する姿勢は学べます。生まれや環境に左右されず学び続けることの力も、部下育成の手本になります。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る

この章句が説くこと

『武学啓蒙』力丸東山伝記青松塾文武両道射術

関連する章句

本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る