武学啓蒙 / 序・紀信豪・橋本毛山の序と警世の言
予嘗學比岐女鳴弦之法、是上古天孫氏之遺美、國家之舊式、不可闕者也、其詳說之、亶々故事典實皆可以徵、(豪)悚然起敬矣、蓋先生之學有淵源、皆此類也、若夫後生將仰先生之度量徵音、則所謂一叩洪鐘、伐雷皷、而後能識其偉且大者哉、(豪)不敏受敎于門下、非一朝一夕、然而性魯職蕃、不能弘其道、乃顧今有啓發幼蒙之撰、私心或恐、世以此小錄、管見先生、遂僭踰叙于篇端云、時文化紀元甲子冬十一月之吉近江 紀信豪拜撰武敎錄序寬政、享和、文化、文政年間、四海昇平 上下恬然、以爲萬世無事、武備頗廢、士氣不振、方此時、林子平、蒲生君平等、慷慨憂慮後、著書以告世、而人々嘲爲狂、無顧之者、此書力丸東山所著、亦憂國誠世之言、可謂深切著明矣、蓋兵亂禍災、胚胎於安寧無事之日、以漸而生、惟智者先見之機、呢々言之、猶良醫之察病、少壯之人、身體健强、飲食動作、失其攝養、至衰老、一旦病發、不可救藥、惟待死而已、速迎良醫、欲其方、則可以起死回生矣、今日四方多事、人能服膺此言、從事此言、亦撥亂反正之醫藥也、東山之婆心、而後可驗焉、讀者勿輕忽見之矣、元治二年乙丑三月毛山 橋本通識
新字:予嘗学比岐女鳴弦之法、是上古天孫氏之遺美、国家之旧式、不可闕者也、其詳説之、亶々故事典実皆可以徴、(豪)悚然起敬矣、蓋先生之学有淵源、皆此類也、若夫後生将仰先生之度量徴音、則所謂一叩洪鐘、伐雷鼓、而後能識其偉且大者哉、(豪)不敏受教于門下、非一朝一夕、然而性魯職蕃、不能弘其道、乃顧今有啓発幼蒙之撰、私心或恐、世以此小録、管見先生、遂僭踰叙于篇端云、時文化紀元甲子冬十一月之吉近江 紀信豪拝撰武教録序寛政、享和、文化、文政年間、四海昇平 上下恬然、以為万世無事、武備頗廃、士気不振、方此時、林子平、蒲生君平等、慷慨憂慮後、著書以告世、而人々嘲為狂、無顧之者、此書力丸東山所著、亦憂国誠世之言、可謂深切著明矣、蓋兵乱禍災、胚胎於安寧無事之日、以漸而生、惟智者先見之機、呢々言之、猶良医之察病、少壮之人、身体健強、飲食動作、失其摂養、至衰老、一旦病発、不可救薬、惟待死而已、速迎良医、欲其方、則可以起死回生矣、今日四方多事、人能服膺此言、従事此言、亦撥乱反正之医薬也、東山之婆心、而後可験焉、読者勿軽忽見之矣、元治二年乙丑三月毛山 橋本通識
書き下し
予嘗て比岐女鳴弦の法を学ぶ。是れ上古天孫氏の遺美、国家の旧式、闕くべからざる者なり。其の詳説、亶々として故事典実、皆以て徴すべし。(豪)悚然として敬を起こす。蓋し先生の学に淵源有ること、皆此の類なり。若し夫れ後生将に先生の度量徴音を仰がんとせば、則ち所謂一たび洪鐘を叩き、雷鼓を伐ちて、而る後に能く其の偉にして且つ大なるを識るなり。(豪)不敏、教を門下に受くること、一朝一夕に非ず。然れども性魯にして職蕃く、其の道を弘むること能はず。乃ち顧みて今、啓発幼蒙の撰有り、私心或いは恐る、世の此の小録を以て、先生を管見せんことを。遂に僭踰して篇端に叙すと云ふ。時に文化紀元甲子冬十一月の吉、近江紀信豪拝撰す。武教録序。寛政・享和・文化・文政年間、四海昇平、上下恬然として、以て万世無事と為し、武備頗る廃れ、士気振はず。此の時に方りて、林子平・蒲生君平ら、慷慨憂慮して、書を著して以て世に告ぐ。而るに人々嘲りて狂と為し、顧みる者無し。此の書は力丸東山の著す所にして、亦た国を憂ひ世を誡むるの言なり。深切著明と謂ふべし。蓋し兵乱禍災は、安寧無事の日に胚胎し、以て漸く生ず。惟だ智者のみ先見の機、呢々として之を言ふ、猶ほ良医の病を察するがごとし。少壮の人、身体健強にして、飲食動作、其の摂養を失へば、衰老に至り、一旦病発せば、薬もて救ふべからず、惟だ死を待つのみ。速やかに良医を迎へ、其の方を欲すれば、則ち以て起死回生すべし。今日四方多事、人能く此の言に服膺し、此の言に従事せば、亦た乱を撥め正に反すの医薬なり。東山の婆心、而る後に験すべし。読者之を軽忽に見ること勿かれ。元治二年乙丑三月、毛山橋本通識す。
現代語訳
私はかつて、比岐女(蟇目)・鳴弦の法を学びました。これは上古の天孫氏の遺した美風で、国家の旧式であり、欠いてはならないものです。その詳しい説は、まことに故事・典実がみな証拠とできるものでした。(豪)は身がすくむ思いで敬意を抱きました。思うに先生の学に淵源があることは、みなこの類です。もし後進が先生の度量や徴音(すぐれた音声)を仰ごうとするなら、いわゆる大きな鐘を一たび叩き、雷のような鼓を打ってこそ、その偉大さを知ることができるようなものです。(豪)は不敏ながら、門下で教えを受けて、一朝一夕ではありません。しかし生まれつき愚鈍で職務も多く、その道を広めることができません。そこで顧みると、今、幼い者を啓発する書の撰があり、私は内心、世の人がこの小さな記録で先生を狭い見方で見ることを恐れます。ついに分を越えて篇の初めに序を書くといいます。時に文化紀元甲子、冬十一月の吉日、近江の紀信豪が謹んで撰しました。『武教録』序。寛政・享和・文化・文政の年間は、天下が太平で、上下とも安らかにして、万世にわたって何事もないと思い、武備はひどく廃れ、士気は振るいませんでした。このとき、林子平や蒲生君平らが、憤り憂えて、書を著して世に告げました。しかし人々は嘲って狂人と見なし、顧みる者はありませんでした。この書は力丸東山の著すところで、これもまた国を憂え、世を戒める言葉であり、深切で明らかというべきです。思うに兵乱・禍災は、安らかで何事もない日に芽生え、次第に生じるのです。ただ智者だけが、先を見通す機を、こまごまと語ります。それは名医が病を見極めるようなものです。若く盛んな人は、身体が健やかで、飲食や動作において養生を失えば、年老いて一旦病が起こると、薬でも救えず、ただ死を待つだけになります。速やかに良医を迎えてその処方を求めれば、息を吹き返すことができます。今日は四方に事が多く、人がよくこの言葉を心に留めて実践すれば、これも乱を治めて正に返す医薬となります。東山の老婆心は、その後に験されるでしょう。読者はこれを軽く見てはなりません。元治二年乙丑、三月、毛山橋本通識しました。
解説

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