武学啓蒙 / 論・国土と時代で武のあり方は変わる
按ずるに、毛詩に、物あれば則ありと、又俗諺にも、域異ば歌聲かわるとて、其國土の風俗より、政刑の法律も、輕重の權、時所のつりあひ、少しく差別なきことあたわず、(事は、予が、律令參考に、くはしくのす)況や、唐山と日本、絶域萬里、各ゝ其物の格則、異なるあり、なかんづく、武家古今の別、甚しきをや、此義、さきに予が著せし武夫問對に、のせたれど、今其略をいはゞ、西土にて、易の武人、詩の武夫は、かろからざるにも似たり、我荷古の、物部の神たちも、また貴かりしにや、いづれ彼も此も、時世の勢、上は大聖賢の德あり、下淳朴の質なれば、其事迹、今を以て論ぜば、天地とかわるわけあり、拘われる斯文家、いたづらに古に泥みて今を論じ、小智ある鄕人に唉るゝ、是がためなり、古聖于羽の德はもちろん、それよりの開國創業も、廟廊帷幄の勝算、順天應人の征伐、はげしき血戰は、甚だすくなく、後に征するを人民まちかぬるもあり、戰に及ばずして義に服するもあり、又戰かへるも大略は、所謂前徒戈を倒にするの類にて、取るべきを取る故に、霜後の木葉をふるふにひとし、是善戰者の兵、しかることあり、其善謀の名士太公望の如き、代治まりては、元勳の賞、大國の主たり、名ある從類、卿、もしくば大夫、士、などとなりぬ、其後、年久しくして、漸々に制亂れ、戰國の代にいたり、武士とよぶものは、一時の選兵にて、其職掌いやしく、遂に牛尾火に伍たり、我邦、昔郡縣の時も、武役とて、一切あしがるあしらひなるものゝ如し、武家の代と云こと、あるに及び、大に一變し、物則こゝにしたがひ移れりとす、西土も、六國の末、說客の舌鋒に、紛亂せしこと久し、秦の大豪傑出て、妙計奇術の威、天下を一呑とし、さらに郡縣の治を始めたり、始皇帝の號むべなり、漢の創業やゝ、
新字:按ずるに、毛詩に、物あれば則ありと、又俗諺にも、域異ば歌声かわるとて、其国土の風俗より、政刑の法律も、軽重の権、時所のつりあひ、少しく差別なきことあたわず、(事は、予が、律令参考に、くはしくのす)況や、唐山と日本、絶域万里、各ゝ其物の格則、異なるあり、なかんづく、武家古今の別、甚しきをや、此義、さきに予が著せし武夫問対に、のせたれど、今其略をいはゞ、西土にて、易の武人、詩の武夫は、かろからざるにも似たり、我荷古の、物部の神たちも、また貴かりしにや、いづれ彼も此も、時世の勢、上は大聖賢の徳あり、下淳朴の質なれば、其事迹、今を以て論ぜば、天地とかわるわけあり、拘われる斯文家、いたづらに古に泥みて今を論じ、小智ある郷人に唉るゝ、是がためなり、古聖于羽の徳はもちろん、それよりの開国創業も、廟廊帷幄の勝算、順天応人の征伐、はげしき血戦は、甚だすくなく、後に征するを人民まちかぬるもあり、戦に及ばずして義に服するもあり、又戦かへるも大略は、所謂前徒戈を倒にするの類にて、取るべきを取る故に、霜後の木葉をふるふにひとし、是善戦者の兵、しかることあり、其善謀の名士太公望の如き、代治まりては、元勲の賞、大国の主たり、名ある従類、卿、もしくば大夫、士、などとなりぬ、其後、年久しくして、漸々に制乱れ、戦国の代にいたり、武士とよぶものは、一時の選兵にて、其職掌いやしく、遂に牛尾火に伍たり、我邦、昔郡県の時も、武役とて、一切あしがるあしらひなるものゝ如し、武家の代と云こと、あるに及び、大に一変し、物則こゝにしたがひ移れりとす、西土も、六国の末、説客の舌鋒に、紛乱せしこと久し、秦の大豪傑出て、妙計奇術の威、天下を一呑とし、さらに郡県の治を始めたり、始皇帝の号むべなり、漢の創業やゝ、
書き下し
按ずるに、毛詩に、物あれば則ありと、又俗諺にも、域異ば歌聲かわるとて、其國土の風俗より、政刑の法律も、輕重の權、時所のつりあひ、少しく差別なきことあたわず、(事は、予が、律令參考に、くはしくのす)況や、唐山と日本、絶域萬里、各ゝ其物の格則、異なるあり、なかんづく、武家古今の別、甚しきをや、此義、さきに予が著せし武夫問對に、のせたれど、今其略をいはゞ、西土にて、易の武人、詩の武夫は、かろからざるにも似たり、我荷古の、物部の神たちも、また貴かりしにや、いづれ彼も此も、時世の勢、上は大聖賢の德あり、下淳朴の質なれば、其事迹、今を以て論ぜば、天地とかわるわけあり、拘われる斯文家、いたづらに古に泥みて今を論じ、小智ある鄕人に唉るゝ、是がためなり、古聖于羽の德はもちろん、それよりの開國創業も、廟廊帷幄の勝算、順天應人の征伐、はげしき血戰は、甚だすくなく、後に征するを人民まちかぬるもあり、戰に及ばずして義に服するもあり、又戰かへるも大略は、所謂前徒戈を倒にするの類にて、取るべきを取る故に、霜後の木葉をふるふにひとし、是善戰者の兵、しかることあり、其善謀の名士太公望の如き、代治まりては、元勳の賞、大國の主たり、名ある從類、卿、もしくば大夫、士、などとなりぬ、其後、年久しくして、漸々に制亂れ、戰國の代にいたり、武士とよぶものは、一時の選兵にて、其職掌いやしく、遂に牛尾火に伍たり、我邦、昔郡縣の時も、武役とて、一切あしがるあしらひなるものゝ如し、武家の代と云こと、あるに及び、大に一變し、物則こゝにしたがひ移れりとす、西土も、六國の末、說客の舌鋒に、紛亂せしこと久し、秦の大豪傑出て、妙計奇術の威、天下を一呑とし、さらに郡縣の治を始めたり、始皇帝の號むべなり、漢の創業やゝ、
現代語訳
考えてみると、詩経(毛詩)に「物あれば則あり」とあり、また俗諺にも「地域が異なれば歌声が変わる」とあって、その国土の風俗から政治・刑罰の法律、軽重の権衡、時と所の釣り合いに至るまで、少しは違いがないはずはありません。(このことは私の『律令参考』に詳しく述べました。)まして中国と日本は、はるかに隔たった万里の異域で、それぞれその物の格則が異なります。なかでも武家の古今の違いは甚だしいものです。この義は、先に私が著した『武夫問対』にも載せましたが、今その略を言えば、中国では易の武人、詩の武夫は軽くなかったようにも思われます。わが国の古の物部の神々もまた貴かったでしょうか。いずれにしてもあれもこれも、時世の勢いで、上は大聖賢の徳があり、下は淳朴の質であったので、その事跡を今の基準で論ずれば、天地ほど違うわけがあります。拘泥する学者が、いたずらに古に泥んで今を論じ、少し知恵のある田舎者に笑われるのは、このためです。古の聖人于羽(舜が干羽を舞わせた故事)の徳はもちろん、それ以後の開国創業も、廟堂・帷幄での勝算、天に順い人に応じる征伐であり、激しい血戦は甚だ少なく、後から征するのを人民が待ちかねたり、戦わずして義に服したり、また戦っても大略はいわゆる「前の徒が戈を逆さにする」類で、取るべきを取るので、霜の降りた後の木の葉を振るい落とすのに等しかったのです。これは戦上手の兵の、そうなることです。その善謀の名士、太公望のような者は、世が治まってからは元勲の賞として大国の主となり、名のある従者は卿、あるいは大夫、士などとなりました。その後、年久しくなって次第に制度が乱れ、戦国の世に至り、武士と呼ぶ者は一時の選兵で、その職掌は卑しく、ついに牛の尾や火の番の仲間とされました。わが国で昔、郡県の時代にも、武役といって、すべて足軽のような扱いだったようです。武家の世ということが現れるに及んで、大いに一変し、物と則がここに従って移ったと言えます。中国も六国の末に、遊説家の舌鋒で長く紛乱しました。秦の大豪傑が出て、妙計奇術の威力で天下を一呑みにし、あらためて郡県の治を始めました。始皇帝の号ももっともです。漢の創業はやや、
解説

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