武道初心集 / 忠死一
奉公を勤る武士。主君の御恩情を深厚に罷蒙り。其御恩を報じ奉り樣無之。せめては殉死なり共仕り度存ずるといへ共。公義の御法度なれば其義も不相叶。さればとて疊の上に於て。人並の奉公を勤めて。一生を過すと申すは。心外の至りなり。あはれ何事にてもあれ。諸傍輩の腕先に叶ひがたき。奉公所もあれかし。身命を拋ち。是非仕り上べき物をと。心底に思ひ定めたる者有之候はゞ。殉死には百双倍も優り。主君の御爲は申すに及ばず。家中大小の諸奉公人までの援ひともなり。忠義勇の三つを兼備へて。末世の武士の手本共可罷成一品有之候。其子細を申すに。大身の家には。必久しき怨靈有之物に候。其怨靈の祟をなすに其品二ッ有之。一ッには其家代々の家老年寄の中に。忠義勇兼備り。後々は必定主君の御用に相立。家中末々の爲にも可罷成とて。諸人の譽事に預る若手の武士。不慮の怪我を致して相果るも。又時の流行煩などにて若死を致し。主人に事を欠せ申候。武田信玄の士大將。甘利左衞門が馬より落て若死を致したるを。是則武田の家の久しき怨靈なりと。高阪彈正が悔みし類に候。
新字:奉公を勤る武士。主君の御恩情を深厚に罷蒙り。其御恩を報じ奉り様無之。せめては殉死なり共仕り度存ずるといへ共。公義の御法度なれば其義も不相叶。さればとて畳の上に於て。人並の奉公を勤めて。一生を過すと申すは。心外の至りなり。あはれ何事にてもあれ。諸傍輩の腕先に叶ひがたき。奉公所もあれかし。身命を抛ち。是非仕り上べき物をと。心底に思ひ定めたる者有之候はゞ。殉死には百双倍も優り。主君の御為は申すに及ばず。家中大小の諸奉公人までの援ひともなり。忠義勇の三つを兼備へて。末世の武士の手本共可罷成一品有之候。其子細を申すに。大身の家には。必久しき怨霊有之物に候。其怨霊の祟をなすに其品二ッ有之。一ッには其家代々の家老年寄の中に。忠義勇兼備り。後々は必定主君の御用に相立。家中末々の為にも可罷成とて。諸人の誉事に預る若手の武士。不慮の怪我を致して相果るも。又時の流行煩などにて若死を致し。主人に事を欠せ申候。武田信玄の士大将。甘利左衛門が馬より落て若死を致したるを。是則武田の家の久しき怨霊なりと。高阪弾正が悔みし類に候。
書き下し
奉公を勤る武士。主君の御恩情を深厚に罷蒙り。其御恩を報じ奉り樣無之。せめては殉死なり共仕り度存ずるといへ共。公義の御法度なれば其義も不相叶。さればとて疊の上に於て。人並の奉公を勤めて。一生を過すと申すは。心外の至りなり。あはれ何事にてもあれ。諸傍輩の腕先に叶ひがたき。奉公所もあれかし。身命を拋ち。是非仕り上べき物をと。心底に思ひ定めたる者有之候はゞ。殉死には百双倍も優り。主君の御爲は申すに及ばず。家中大小の諸奉公人までの援ひともなり。忠義勇の三つを兼備へて。末世の武士の手本共可罷成一品有之候。其子細を申すに。大身の家には。必久しき怨靈有之物に候。其怨靈の祟をなすに其品二ッ有之。一ッには其家代々の家老年寄の中に。忠義勇兼備り。後々は必定主君の御用に相立。家中末々の爲にも可罷成とて。諸人の譽事に預る若手の武士。不慮の怪我を致して相果るも。又時の流行煩などにて若死を致し。主人に事を欠せ申候。武田信玄の士大將。甘利左衞門が馬より落て若死を致したるを。是則武田の家の久しき怨靈なりと。高阪彈正が悔みし類に候。
現代語訳
奉公を勤める武士が、主君のご恩情を深く厚く受け、そのご恩に報いるすべがなく、せめては殉死でもしたいと思っても、幕府のご法度なのでそれもかなわない。かといって、畳の上で人並みの奉公を勤めて一生を過ごすというのは、心外の至りです。ああ、何事であれ、同僚の腕前ではかなわないような奉公の場があってほしい。命を投げうって、ぜひともなし遂げたいものを、と心の底に思い定めている者がいるならば、それは殉死にも百倍千倍まさり、主君のためはもちろん、家中の大小の奉公人にいたるまでの救いともなり、忠義・勇の三つを兼ね備えて、末世の武士の手本ともなりうる一品があります。そのわけを申しますと、大身の家には、必ず久しい怨霊があるものです。その怨霊が祟りをなすのに、その品が二つあります。一つには、その家代々の家老や年寄の中に、忠義・勇を兼ね備え、行く末はきっと主君の御用に立ち、家中の末々のためにもなるだろうと、人々から誉れを受けている若手の武士が、思いがけない怪我で亡くなったり、時の流行り病などで若死にして、主人を困らせることです。武田信玄の士大将である甘利左衛門が馬から落ちて若死にしたのを、これこそ武田の家の久しい怨霊だと、高坂弾正が悔やんだ類のことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武道初心集』忠死(五)家中こぞりて是を惡み候へ共。十人が九人迄も。其者の惡事を申立。公事沙汰に取結び。手を汚さず。舌先の勝負にして。本意を遂べきといふ分別相談の外無之。左候ては。中々內證にて埒明ず。主君の御一門方の御取扱と成り。それより事重く成行。畢竟は公義の御沙汰共不罷成しては不叶候。昔が今に至るまで。大名方の家の仕置を被成衆。公義の御厄介と成り。其事の濟たる上に於て。主人の身上の相立たる例とては無之。角を直すとて牛を殺し。鼠を狩とて祉を燒く喩の如く。主人の御身上は潰し。家中大小の諸奉公人は。皆々流浪の身と成果申候。斯る時。前に申す當家の惡魔。主君の怨敵たる。件の大惡人を執て押へ。胴腹を剜り候とも。又ほ元首を刎捨候共。心の儘に仕澄して埒を明け。我が身は即座に切腹を遂げ相果最に候。然る時は。何の出入公事沙汰と申義も無之。主君の御身上に相障る義も無之。家中の諸人も安堵致し。國家安泰に候。爰を以て殉死には百双倍も優り。忠義勇の三つに相叶ひ。末代の武士の手本共可罷成一品とは申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』總論(一)武士たらむものは。正月元日の朝。雜煮の餅を祝ふとて。箸を取初るより。其年の大晦日の夕べに至るまで。日々夜々死を常に心にあつるを以て。本意の第一と仕り候。死をさへ常に心にあて候へば。忠孝の二つの道にも相叶ひ。萬の惡事災難をも遁れ。其身無病息災にして。壽命長久に。剩へ其人柄までもよろしく罷成。其德おほき事に候。其仔細を申に。總じて人間の命をば夕部の露。あしたの霜になぞらへ。隨分はかなき物に致し置候中にも。殊更危きは武士の身命にて候を。人々おのれが心すましに。いつまでも長生を仕る了簡なるに依て。主君へも末永き御奉公。親々への孝養も。末久しき義なりと存ずるから事起りて。主君へも不奉公を仕り。親々への孝行も。疎略には罷成にて候。今日在て明日を知らぬ身命とさへ。覺悟仕り候に於ては。主君の御前へ罷出て御用を承るも。親々の顔を見上るも。是をかぎりと罷成事もやと。存ずる心あひに相成候ゆゑ。主親へ眞實の思ひ入れと罷成らずしてはかなはず候。去に依て。忠孝の二つの道にも相叶ふとは申にて候。
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『武道初心集』名譽武士たらんものは。常に古き記錄を披見致して。其身の覺悟を相極め尤に候。子細を申すに。世の人のもてはやし候。甲陽軍鑑。信長記。大閤記など申す書の中に。合戰の次第を記し置候にも。名譽の働を遂たる輩の義は。誰がし何某と其姓名を顯はし。此外討死都合何千何百と相記し有之候。右何千何百と申す人數の內には。大身の士いか程も可有之候へ共。させる働も無之を以て。其名を書記すに及ばず候。小身にても。勝れたる武邊有之武士ばかりは擇拔て。姓名を書顯はしたる物にて候。右姓名も殘らぬ程の討死を致すも。又末世末代まで譽れを殘す討死を遂るも。敵に首を渡す時の苦痛に替りとては無之道理に候。爰を能々分別致し。逆も捨る身命ならば。諸手に勝れたる働を仕り討死を遂。敵味方の耳目を驚かし。主君大將の御惜みにも預り。子孫永々の面目にも備へむと心懸るこそ。武士の本意にて候。然るに意地きたなくして。懸る時は人の後。退く時は人の先とばかり心を働かせ。或は敵城を攻る砌も。矢玉の劇しき所にては。傍輩を楯につき。其陰にかゞみ居り。遁れぬ運の矢には中りて伏倒れ。剩さへ味方の踏草にまで成りて。犬死を仕り。大切の身命を失ひ候は。無念の至り。口惜き次第にて。武士の不覺此上有るべからず候。此旨能々思量致し。朝思暮練の工夫あるべき事に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』述懷奉公仕る武士。何事にてもあれ。主君の御爲に對し。一廉ある奉公を仕り。我が心にも。天晴一奉公をば勤めたりと存じ。人も感じ譽るといへ共。主君の御心には左程の事とも思召入られざるにや。又は御心底には感じ思召といへ共。何ぞ外に相障る事も有之やらん。異なる御恩賞もなく。功勞空しく埋るゝに付心底に不足を挾さみ。御情なき事と述懷たらだらにて。身に染ぬ奉公を致す者は。兎角に及ばず。心得違の事に候。戰國の武士の一生の間。幾度といふ事なく軍に立。主君大將の御爲に身命を拋ち。手柄高名を極めたる前に於ては。中々口のさかるゝ義にては無之候。子細は何を申しても治國の奉公と申すは。疊の上を這廻り。互ひに手の甲をさすり。舌先三寸の勝負を爭ふのみの善惡にて。身命をかけそくの働とては。先づは無之事に候。尤忠義の志に於ては。戰國にても治國にても。替る事は無之。勿論奉公する武士の役義に候。それを奇特と有て御賞美可被成も。被成間敷も。其段は主君の御心次第にて。自分は自分の役義を務るとさへ覺悟致し候得ば。事相濟。何にても不足述懷と申義無之道理に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』忠死(四)主君の御事は。被成度まゝの費侈りを被成候故。家中大小の諸奉公人。口に出してこそ言はね。心には各不足を抱さ。誰壹人身に染て。忠義を勵む者も無之ものに候。五つには。大名たるもの。弓矢の道を不沙汰可被成樣とては無之候得共。件の壹人武道不心掛にて。かゝる芽出度靜謐の御代には。武備の吟味穿鑿には不可及と申すに付。元來不嗜なる家中の諸人。それを好事に致して。武藝を務めず。武具兵具の用意も致さず。何事も只當座の間さへ合ばよきぞと申す家風なれば。其御先祖に。世に聞えある名將のをはしましたる家柄の樣には少しも無之。只明日にも事の變有之に於ては。大きに狼狽騷ぎたるばかりにて。事の埒は一つも明兼可申と。覺束なき次第に候。六つには主君の御事。遊興酒色に長じ被成に付。次第に御氣隨もつのり。剩へ病身にまで御成候へば。家中の諸士氣を屆し。心のまめしげなく。一日暮しの樣子なれば。世間の取沙汰。上の思召不可然。畢竟のつまり。主君の御身上にも相障り可申か。然れば大きなる物怪也。其根取を仕る件の壹人は。當家の惡魔。主君の怨敵と申て。
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『武道初心集』臣職(二)殘し置れずしては叶はず候。去るに依て。常々はさして御入用も無之樣に候得共。大身小身へかけ。數多の士を抱へ置被成。家中多き中には不器量沙汰の限り。或は五體不具なる生れ付。又は心行不足に見ゆる者をも。大目に御覽被成て。父祖の知行を相違なく下し置るゝ事に候。然れば御家來の身にて勘辨致すべきは。日本國中國主城主多き中に。いかなる宿緣ありてか主從の約をなし。似合相應の祿を賜り。譬ば百石と申す少知にても。十年には千石の米高に罷成候を。先祖の代より其身の代まで幾十年ともなく。拜領致し來りたる俵子を積り候はゝ。凡如何程に可相成や。此君恩の深きに報謝し奉らんには。常々の番役供役使役などは。治世の只居り役と申物にて。世並人並の義なれば。押立たる奉公とは申難し。只明日にもすはといふ時。平塲の迫合ならば壹番鎗。敵城を攻るに於ては一番乘。もし味方利を失ひ引退く刻は殿。或は品に寄り敵の射る矢おもてに立塞りて。主君大將の御身代りにも罷立。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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