武道初心集 / 武役二
道中の骨折を厭ひて作病を起し。其物入苦勞を人に譲り。諸傍輩の下墨を憚るともなく。其外間近き所の使といへ共。日の中に二度とも出るか。又は風雨劇しき時などは。友傍輩の聞前にて遠慮もなく。役にも立たぬよまひ言などを申。骨を折ながら意地むさき勤方を仕るは。悉皆士の皮をかぶりたる。小者中間に均しき樣子に候。戰國に生れ合たる武士は。毎度軍に罷立。夏の炎天には具足の上よりほし付られ。冬の寒風には。具足肌を吹透され。雨に打れ雪をかぶりて。野にも山にも鎧の袖を敷寢に仕り。剩へ飲食ふ物とても黑米飯鹽汁より外には無之仕合にて。或は對陣城攻。又は籠城等の辛苦を仕るは。難義共苦勞共。只尋常の事にては有べからず候。爰を以て考へ候時は。靜謐の時代に生れ合。夏は蚊帳をたれ。冬は夜着蒲團にまかれ。朝夕好み喰をいたして。安樂に渡世仕るは。大きなる仕合に候。然れば座敷の內の番役。近所の供役使役などの。苦勞太義に思はれべき道理とては無之候。甲州武田家の老臣。弓矢功者と呼れし。馬塲美濃と申たる士は。戰塲常在と申す四字を書て壁間に懸置。平生の受用と仕候由申傳ひ候。初心の武士心得のため仍如件。
新字:道中の骨折を厭ひて作病を起し。其物入苦労を人に譲り。諸傍輩の下墨を憚るともなく。其外間近き所の使といへ共。日の中に二度とも出るか。又は風雨劇しき時などは。友傍輩の聞前にて遠慮もなく。役にも立たぬよまひ言などを申。骨を折ながら意地むさき勤方を仕るは。悉皆士の皮をかぶりたる。小者中間に均しき様子に候。戦国に生れ合たる武士は。毎度軍に罷立。夏の炎天には具足の上よりほし付られ。冬の寒風には。具足肌を吹透され。雨に打れ雪をかぶりて。野にも山にも鎧の袖を敷寝に仕り。剰へ飲食ふ物とても黒米飯塩汁より外には無之仕合にて。或は対陣城攻。又は籠城等の辛苦を仕るは。難義共苦労共。只尋常の事にては有べからず候。爰を以て考へ候時は。静謐の時代に生れ合。夏は蚊帳をたれ。冬は夜着蒲団にまかれ。朝夕好み喰をいたして。安楽に渡世仕るは。大きなる仕合に候。然れば座敷の内の番役。近所の供役使役などの。苦労太義に思はれべき道理とては無之候。甲州武田家の老臣。弓矢功者と呼れし。馬塲美濃と申たる士は。戦塲常在と申す四字を書て壁間に懸置。平生の受用と仕候由申伝ひ候。初心の武士心得のため仍如件。
書き下し
道中の骨折を厭ひて作病を起し。其物入苦勞を人に譲り。諸傍輩の下墨を憚るともなく。其外間近き所の使といへ共。日の中に二度とも出るか。又は風雨劇しき時などは。友傍輩の聞前にて遠慮もなく。役にも立たぬよまひ言などを申。骨を折ながら意地むさき勤方を仕るは。悉皆士の皮をかぶりたる。小者中間に均しき樣子に候。戰國に生れ合たる武士は。毎度軍に罷立。夏の炎天には具足の上よりほし付られ。冬の寒風には。具足肌を吹透され。雨に打れ雪をかぶりて。野にも山にも鎧の袖を敷寢に仕り。剩へ飲食ふ物とても黑米飯鹽汁より外には無之仕合にて。或は對陣城攻。又は籠城等の辛苦を仕るは。難義共苦勞共。只尋常の事にては有べからず候。爰を以て考へ候時は。靜謐の時代に生れ合。夏は蚊帳をたれ。冬は夜着蒲團にまかれ。朝夕好み喰をいたして。安樂に渡世仕るは。大きなる仕合に候。然れば座敷の內の番役。近所の供役使役などの。苦勞太義に思はれべき道理とては無之候。甲州武田家の老臣。弓矢功者と呼れし。馬塲美濃と申たる士は。戰塲常在と申す四字を書て壁間に懸置。平生の受用と仕候由申傳ひ候。初心の武士心得のため仍如件。
現代語訳
道中の骨折りをいやがって仮病を使い、その費用と苦労を人に押しつけて、同僚たちからひそかに悪く思われることも気にしません。そのほか、近い所への使いであっても、一日のうちに二度とも出ることになったり、風雨が激しいときなどには、仲間の聞こえるところで遠慮もなく、役にも立たない弱音を言ったりします。骨を折りながら見苦しい勤め方をするのは、すべて武士の皮をかぶっただけの、小者や中間と同じありさまです。戦国に生まれ合わせた武士は、たびたび戦に出て、夏の炎天には具足の上から干しつけられ、冬の寒風には具足の下の肌まで吹き通され、雨に打たれ雪をかぶって、野にも山にも鎧の袖を敷いて寝ました。そのうえ飲み食いするものも黒米の飯と塩汁のほかにはない有様で、対陣、城攻め、籠城などの辛苦を味わったのは、難儀とも苦労とも、ただ並ひととおりのことではありません。ここから考えれば、静かな時代に生まれ合わせ、夏は蚊帳をつり、冬は夜着や蒲団にくるまれ、朝夕に好きなものを食べて安楽に暮らせるのは、大きな幸せです。そうであれば、座敷の内の番役や近所の供役・使役などを、苦労で大変だと思う道理はありません。甲州武田家の老臣で、弓矢の功者と呼ばれた馬場美濃という武士は、「戦場常在」の四字を書いて壁にかけておき、日ごろの心の支えにしたと言い伝えられています。初心の武士の心得のために、以上のとおりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武道初心集』武役(一)總じて武士の役義と申すは。陣普請兩役に候。天下戰國の時は。明ても暮ても爰の陣彼所の軍とて。一日たりとも武士としては。身を安く置事は不罷成候。陣とさへ申せば。普請は附合にて。爰の要害。彼所の堀切扱は取手陣城付城など申て。晝夜にかぎらぬ急ぎの普請に。上下の骨折辛勞は淺からざる義に候。治世に於ては。陣といふ事なければ。それに從て普請とても無之候。去るに依て。武將の下。大小の士に。番役供役使役等。其外役々を定められ。諸人只居役の勤をさせて指置被成候を。是が武士の役義ぞと心得。肝要の役義たる。陣普請の兩役の義をば曉の夢にも思ひ出さず。たまさかにも公義御普請の御手傳。主君へ仰付られ。其物入多さを以て。家中の士へ割合になり。少しづゝ出金有之時は。何ぞ出すまじき物を出すがごとく。悔みつぶやき候は。畢竟武士の役義に於ての肝要は。陣普請といふを。存じ辨へざるより起る事に候。扱常式の番役供役使役の義も。我が當り前の本番を勤るをさへ。大きなる難義と心得。させる病氣と申にても無之にも。病氣斷りを申立て。同役相番へ助を頼み。人に苦勞を懸るをば何共存ぜず。或は旅がけの使には。路銀の物入。
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『武道初心集』出家士(二)いまだ年若き者も妻子を持ち。朝寢晝寢を業と致し。士の常法たる。兵法をさへ學び務めず候からは。ましてや手遠なる。軍法戰法の事は。思ひがけもなくて。一日ぬらりに年月を送る內に。そろ〳〵髭白毛も生ひ出。額口も禿上りて。何樣尤らしき年齡に見ゆるを以て。役ぬけの撰擧に預り。譬へば使番などになり候ても。早當座から行あたり。同役仲間の介抱を以て。何とか相勤め罷在內に。常に無之遠國使など有之時は。俄に胸をつき。旅行の支度にとりまぜて。先輩の口傳を受け。古來の控覺書など借用して。漸々と其塲を勤め候は。幸にして免れたると申すものにて。本道の事とは申されず候。子細を申に。武家の諸役儀大形定り有ものなれば。其身無役の內。連々心にかけ。役義馴れたる功者に參會の序毎には。無益の雜談を相止め。向後の心付にも可罷成と。思ひ寄たる事共をば。幾度も問尋ねて。委細に聞覺え。或は古き控覺書。繪圖等までも借りあつめ寫し置き。勤方の大筋を呑込候得ば。何時何役に成り候ても。務り易き道理に候。其上先輩同役に便りて事を習ひ。介抱に預りて事を濟すも。常式の時の儀に候。萬一世の變に至り候ては。人の介抱引廻しに預る事はならざる事に候間。善くも惡くも我獨分別にて。埒を明るより外は無之候。
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『武道初心集』述懷奉公仕る武士。何事にてもあれ。主君の御爲に對し。一廉ある奉公を仕り。我が心にも。天晴一奉公をば勤めたりと存じ。人も感じ譽るといへ共。主君の御心には左程の事とも思召入られざるにや。又は御心底には感じ思召といへ共。何ぞ外に相障る事も有之やらん。異なる御恩賞もなく。功勞空しく埋るゝに付心底に不足を挾さみ。御情なき事と述懷たらだらにて。身に染ぬ奉公を致す者は。兎角に及ばず。心得違の事に候。戰國の武士の一生の間。幾度といふ事なく軍に立。主君大將の御爲に身命を拋ち。手柄高名を極めたる前に於ては。中々口のさかるゝ義にては無之候。子細は何を申しても治國の奉公と申すは。疊の上を這廻り。互ひに手の甲をさすり。舌先三寸の勝負を爭ふのみの善惡にて。身命をかけそくの働とては。先づは無之事に候。尤忠義の志に於ては。戰國にても治國にても。替る事は無之。勿論奉公する武士の役義に候。それを奇特と有て御賞美可被成も。被成間敷も。其段は主君の御心次第にて。自分は自分の役義を務るとさへ覺悟致し候得ば。事相濟。何にても不足述懷と申義無之道理に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』奉公(二)來る幾日には必ず出馬と申合せ定り候ては。もはや延も縮もならざるに付。不足たらだらながらも出勢なくては不叶候。靜謐の時代には。我も人も能見物と心得市屋町屋を借りふさげ。野にも山にも立わだり。貴賤目晒しの武者押は。形のごとくの晴事なるに。家中の人馬出立共に。諸手に劣りて見苦しき樣子ならば。主君大將の御身に取て。御一生の御恥辱是に過ず。此一大事を以て考へ候時は。家中大小の諸士。新參古參に限らず拜領し罷在知行切符の內。分に相應に差上ずしては叶はず候。然れば物成減少の年限の內は。隨分簡略仕り。人馬をも減し。冬は紙子木綿の衣類。夏は布かたびらを着し。朝夕は黑米飯。糠味噌汁と分別を極め。自身は水を汲薪をさき。妻子に飯饗せ力に稱ふ程は難義苦勞を致し。何卒主君の御用途を整へさせまゐらせ度と一筋に存じ入候は。奉公の本意たるべく候。且又右の通り艱難を仕り罷在年限の內たり共。何ぞ臨時の御用を承り。非常の物入ある事も有べく候。左樣の砌りは。自身の指替。女房の手箱を質物に入ても。其償ひを致し。金銀拜借などを此方よりは願ふべからず候。子細を申すに。たとひ主君の御耳にこそ入らず共。家老年寄中の下墨にも。物成減少にあひたるを下心に含み。武士に似合ざるねだり言を申と思はれては。重ねて口もきかれずとのたしなみに候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』出家士(三)就中軍中の使役と申すは。敵の人數の多少。陣取備立の善惡。城の堅固不堅固。或は地形の利不利。合戰勝負の見切までをも。相心得ずしては不叶候。去るに依て。軍使役の儀は古來よりむつかしきものに申し習はし候。然れども使役の義は。たとひ我が物見に相違の儀有之候ても。多分は其身一人の不覺越度にて事濟申候。足輕大將より上の役儀に備り。采拜を取て人數を引廻し候に至ては。味方諸勢の死生に懸り申候。然るに其勘辨なく。なまじひに采拜免許の役儀に高ぶり。諸士の座上を潰し候は沙汰の限り不屆の仕合に候。禪僧のうへにては。平僧の時宗旨の學問に怠り。出世の年臈に至り。頭の禿たる廉を以て。長老和尚に經上り。身に色衣を纏ひ。手に拂子を握り。餘多の大衆を攝得いたすに均しき樣子に候。但し右の賣僧和尚。晴なる法席に臨みて何ぞ不埒有之候得ば。大衆一統の物笑ひとなり。其身一人赤恥をかきて。引込申ばかりの儀にて。大衆へ懸る難義とては少しも無之候。それとは違ひ武家に於て和尚役を務る武士。采拜を振り損じ候時は。味方士卒の身命に懸り。害を爲す事大に候。爰を能々分別仕り。無役にて身の暇有之砌。軍法戰法の修行を極め。采拜所持の職たり共務り乘る儀無之樣。學問修行尤に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』奉公(一)奉公を勤る武士。我が頼み奉る主君。何ぞ大きなる御物入さし集ひて。御勝手向ひしと廻りかね。何共可被成樣無之に至りて。常々家中へ下し置るゝ知行切符の內を。いか程づゝ何が年が間。御借川に被成度などゝ有之義もなくては不叶候。其多少によらず。畏りて御請を申上るより初ては。他人の義は申すに及ばず。たとひ女房子供の寄合雜談の中に於ても。是は難義の至り。迷惑の仕合など。言葉の端にも申出すは。武士の本意に非ず候。子細を申すに。昔が今に至るまで。主君の御難義をば家來共が打寄て是を見屆け奉り。家來の難義をば。主君の御力を以て救ひ被下候は。是皆定れる武家の作法に候。頼み奉る主君の御內證御さし詰り。御手づかへ申すに至りては。公界へ懸り。是は大名役にて不被成しては叶はざる義までも。大形はさし止められ。萬事を御勘忍被成候を見奉るに付ては。御家來の身にて。氣の毒にも。口惜しくも存間敷樣とては無之候。但常式の義は成次第とも可申候。只明日にも天下の國端に於て。不慮の騷動有之刻。相定れる軍役を以て。近日彼地へ發向あられ候樣にとの上意下り。すはや其支度あるに及ても。先づ入用のものは金銀に候。然れば其才覺と有ても。何方よりも出所無之。石にて手を詰たると申す喩のごとくにて。跡へも先へも行乘る難義の內に。同刻の大名衆は。用意相調ひ。
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