武備和訓 / 卷五・破竹の勢い・階上の三人を捕えた機転
一勢源の勢ひ竹を破がごとくなりしといひしに付て、其破竹の勢と云によく相叶へる勝負の事跡あり、九州の一城邑におゐて壯勇の武士三人にて五人を討て立退事あり、追手急に進んで已に及んとす、罪士せんかたなく町屋に駈入二階に上る、追手一人續て其家に入すでに二階に上らんとひしめく、其時階上より氷のごとくなる刀長三鋒鼎のごとく組て、階除に望み、上らば寸寸にせんと勇威を奮ふ、追手の壯士屑ともせず、つる〱と階梯四五段上る時、三人の內一人は罪を御免なると云て飛上り、先一人を俘て縛る、二人互に疑いて猶豫處を又一人を縛り、徐にして終に三人を捕得たり、是等は誠に大膽の勇士にして、能兵法の奇を出すに叶へり、是を以破竹の勢といはんも可ならんか、
新字:一勢源の勢ひ竹を破がごとくなりしといひしに付て、其破竹の勢と云によく相叶へる勝負の事跡あり、九州の一城邑におゐて壮勇の武士三人にて五人を討て立退事あり、追手急に進んで已に及んとす、罪士せんかたなく町屋に駈入二階に上る、追手一人続て其家に入すでに二階に上らんとひしめく、其時階上より氷のごとくなる刀長三鋒鼎のごとく組て、階除に望み、上らば寸寸にせんと勇威を奮ふ、追手の壮士屑ともせず、つる〱と階梯四五段上る時、三人の内一人は罪を御免なると云て飛上り、先一人を俘て縛る、二人互に疑いて猶予処を又一人を縛り、徐にして終に三人を捕得たり、是等は誠に大胆の勇士にして、能兵法の奇を出すに叶へり、是を以破竹の勢といはんも可ならんか、
書き下し
一勢源の勢ひ竹を破がごとくなりしといひしに付て、其破竹の勢と云によく相叶へる勝負の事跡あり、九州の一城邑におゐて壯勇の武士三人にて五人を討て立退事あり、追手急に進んで已に及んとす、罪士せんかたなく町屋に駈入二階に上る、追手一人續て其家に入すでに二階に上らんとひしめく、其時階上より氷のごとくなる刀長三鋒鼎のごとく組て、階除に望み、上らば寸寸にせんと勇威を奮ふ、追手の壯士屑ともせず、つる〱と階梯四五段上る時、三人の內一人は罪を御免なると云て飛上り、先一人を俘て縛る、二人互に疑いて猶豫處を又一人を縛り、徐にして終に三人を捕得たり、是等は誠に大膽の勇士にして、能兵法の奇を出すに叶へり、是を以破竹の勢といはんも可ならんか、
現代語訳
一つ、勢源の勢いは竹を割るようだったと言ったことに関連して、その破竹の勢いにまさに当てはまる勝負の事跡があります。九州のある城下町で、壮勇の武士三人が五人を討って立ち退くことがありました。追手が急に進んで、すでに追いつこうとしていました。罪を犯した武士たちはどうしようもなく、町屋に駆け入って二階に上りました。追手の一人が続いてその家に入り、すでに二階に上ろうとひしめきました。そのとき、階上から氷のような刀が三本、三つの鋒を鼎のように組んで階段のそばに現れ、上るなら寸々に斬る、と勇威を振るいました。追手の壮士は少しも気にせず、つるつると階段を四、五段上りました。そのとき、三人のうちの一人が、罪をお許しください、と言って飛び上がり、まず一人を捕えて縛りました。二人は互いに疑い、ためらっているところを、また一人を縛り、徐々に、ついに三人とも捕らえました。これらはまことに大胆な勇士で、よく兵法の奇を出すことに叶っています。これを破竹の勢いというのも、よいでしょうか。
解説

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『武士訓』卷五・第9段勝負は竹をわるごとし。もとのかた一ふしわれば。すゑまでわるゝなり。軍書に破竹のいきほひとしるせり。左ありとてももと一ふしわりたるまゝにてやむれば。すゑはわれざるなり。これをとゞまるといひてきらへり。瞬目のたるみも有べからず。柔よく剛を制するの理をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば。かへつてよはきことあり。われつよければ。かれも又つよし。
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『武備和訓』・卷五・仁義の勇者は勝負の前に勝っている勢源は自手一尺三寸の木刀を携ふ、梅津撿使へむかいて眞劔を以て勝負せん事を願ふ、撿使勢源にかくと告る、源曰、相手はともかくも、我は木刀を用べしと云により、双方木刀に究りぬ、梅津は大太刀、勢源は小太刀なるに、梅津が風情は偏に獅子奮迅の勢に異ならず、勢源睡猫の新に一鼠を見たるが如く聲をかけて、勝負をなすに、梅津が首朱に成て血衣紋に流る、梅津奮て勢源を打、源笑て梅津が右の腕を强く打て彼が木刀を打おとし踏折之、時に梅津腰刀をぬかんとすれども不叶して仆る、勢源が勢ひ偏に竹を破がごとくなりしと、予が先輩土岐何某、其祖父土岐新右衞門能其勝負を見たりと語るを聞く、愚云、勝負已前に勢源の勝たる事明に知れたり、勢源は仁義の勇者、梅津は暴虎の勇者なり、不仁を以て仁義に敵するにいかんぞ勝べけんや、梅津仁義の勇なきにより、自ら狂じて我慢心を起し勝負を望む、さるによつて本心動じて騷敷により、齋して心をおさめんとす、富田は本心靜なるにより、勝負を苦勞にせず、唯天運に任せり、身伎手足は一心の統る處、刀檜を以撃も刺も皆一心のなせる處也、たとへば本心は三軍の將帥のごとく、手足は士卒のごとし、無法の賊兵といふとも、良將これを司どれば、進退皆規矩にあたる、武藝の奧義、仁義の勇を悟て、心法を鍊ふにあるべし、
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『武備和訓』・卷二・武芸の誇りが招いた災い(下)節短なるが、風に曝れて火色になりたるを、根引にし、長サ四尺八寸に捻切、己が三尺六寸の鞘囊を用竹刀とし、廷上に躍出る、是に續て七人の勇士は、各ゝ木刀を提げて後にしたがふ、芝任枇杷の木刀を八の字のごとくに組み、中央にたてり、淸水芝任が正面にむかへば、其外の七人、周りて八陣の方位のごとくに是を圍み、颯と聲をかくるとひとしく、八方一度に奮迅して打之、淸水四尺の竹刀を苧がらの如くに擧げ、力を揮ひて打之、芝任飛蝶の如くに躍り、左右の二刀をむなしとせず、或は潜りて圍みをぬけ、千變萬化に相闘ふ、淸水竹刀を橫斜に挈、芝任を塀際に追詰、延かけて打けるに、芝任が首の鉢を筋違に、左の肩骨を打碎て、大地に打居ける、劔客大勇力に打れ、立所に息絕たり、執事も興を覺しける所に、一時ばかり後に蘇れり、厥后四五日を經て、遂に逐電せり、古語に、出一言則難追駟馬、口是禍門、舌是斬身刀、深閉口藏舌、身安而所々寧、或一藝に名ある人の歌に、上手とは、外を謗ず、自慢せず、身の及ぬを、恥る人なり、一藝に名ある者は用ひられずと云事なしと、韓退之の云置り、誠の上手名人は、何程自拙しと謙るとも、人必つたなしとせず、遊藝等には興に乘じて自贊すとも、武藝は、言のはびにも誇る事なきを、武道とせり、
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『淮南子』兵略訓今 兩人をして刃を接せしむるに、巧詘 異ならずして、勇士 必ず勝つ者は、何ぞや。其の行うこと之れ誠なればなり。夫れ巨斧を以て桐薪を擊つに、利時良日を待ちて而る後に之を破らず。巨斧を桐薪の上に加えて、人力の奉ずる無ければ、招搖に順い、刑德を挾むと雖も、而も破る能わざる者は、其の勢無きを以てなり。故に水 激すれば則ち悍く、矢 激すれば則ち遠し。夫れ栝淇衛箘簵、載するに銀錫を以てするも、薄縞の幨、腐荷の矰有りと雖も、然れども猶お獨り射る能わざるなり。之に筋角の力、弓弩の勢を假れば、則ち兕甲を貫きて革盾を徑るなり。夫れ風の疾きは、屋を飛ばし木を折るに至る。虛舉の下は大いに遲し。高丘より上るは、人の推す所有ればなり。是の故に善く兵を用うる者は、勢 積水を千仞の堤に決するが如く、員石を萬丈の溪に轉ずるが若し。天下 吾が兵の必ず用いらるるを見れば、則ち孰か敢えて我と戰わん者あらんや。故に百人の必死は、萬人の必北に賢る。況んや三軍の眾を以て、水火に赴きて踵を還さざるをや。天下に誂いて刃を合わすと雖も、誰か敢えて上に在らんや。
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『武備和訓』・卷四・号令と一致した動きが備えの成果主稅をして表門に差遣す、是奇正の變化無窮して、因敵轉化すと云もの是なり、扨又鬪戰に、號令と云事肝要なり、喩へば平日寇讐の思ひをなせし人々も、讐家に入つて相鬪の間は、唯今組合たる面々、三人一身と合して、勝負を相助、少も自私の働をなすべからず、三人合體一人とするからは、本より手足相離るべき樣なしと、堅く令し、相詞を以て聲を聞、相印を以て色を見、耳目を用て心を決し、精銳驍勇の鼎兵、必死を誓ひて討入、是則四十余人の、進退一致にして、唯一人の手足耳目を用て、其動靜一心の欲する處に叶ふがごとし、其分數奇正號令節制皆能孫吳の規矩にかなへり、此理をもつて見る刻は、勝負自分明にして、いぶかる事なし、爰を以ておもふ時は、兵を用るの法は多少によらず、深く慮るべきの道なり、武人是を等閑の事にするは誠に悼むに餘りあり、されば武門に生れて、兵法の道にうとく、武備を忘るゝ時は、忠孝盡す事ならずといふものは爰なり、良雄が黨、兵法を鍛鍊して、武備をおさめたるが故に、能忠勇に達せりといへば、問人感服せり、
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『武備和訓』・卷五・仁義を先に学び沈勇を養う(勢源と梅津)一本朝元來義武の國にして、人物天性と猛し、されば、神功皇后より豐臣秀吉公に至りて、外國と鬪ふ事數々ありて、吾國の兵終に敗れず、是武國の驗にあらずや、然るに人文大に開けて仁義荐に行れば、中國といへども恥べきにあらず、爰を以武門の少年最初に仁義の道を學び、次に兵を學ぶ事勿論なるべし、遂に道の本理を悟る事は、壯年にあらずんばかたかるべけれども、假にも道にあらざれば、敎じとの意、又は初一念のはなれがたきは凡情の常なればなり、それ仁義なきの勇武は、猛獸のふるまひに近かるべし、一勝負の道は勇をおさめて、妄りに猛かるべからず、沈勇のものは必勝、浮勇のものは必負べし、むかし富田勢源越前を出て美濃に行けるに、其比常陸國香島の住人梅津と云刀術の達人、濃州にありて刀法を敎へ、我藝に誇り自流の外に兵法はなしと稱し、勢源が來るを聞て仕合せん事を望む、勢源聞て兵法は凶賊を討べきもの也、梅津と勢源双方罪なし、又相憤て勝負すべきの謂なし、素より我刀術未熟也、比ぶべきものにもあらずと云、梅津聞て勢源越前に於て口をばさくとも、我が太刀先にまはらば活ざらん事を怖てかくいふ覽と、彌々廣言に及ぶ、濃州の國主齋藤義龍、勢源が溫寬に荷擔して、吉崎伊豆、武藏淡路と云者、兩人を以、仕合を望る、勢源辭す、已に使者三度に及ぶ、勢源今は不及是非と云て、命に從ひ、撿使を乞ふ、義龍武藤吉崎を以て撿使とし、則吉崎が宅におゐて勝負すべしと定む、梅津は二夜三日身を淸め信心を致す、勢源にも齋を勸る人あり、源曰、我常に心に信を存せり、常に存せざる信を事に望んで求むるとも、何の神か肯ひ給はん、我素より不仁の心を以て人を害せん事をおもわず、再三に辭せん事も武の本意にあらず、只人の望みに應じてやむ事を不得もの也、既に其日に至れば、兩方吉崎が宅に相望む、梅津は數十人の弟子を卒ひ、三尺六寸の木刀を袋に納て持之、