武備和訓 / 卷四・分数と奇正で大人数を治める
一本心は仁義忠信に徹してうつらず、眼は孫吳韜略の書にさらし、軍旅の奧義を致むべき事、肝要なり、或人予に問ていはく、大石內藏介良雄が黨四十六人、吉良の宅を圍し時、吉良にも壯士五六十人も有べし、然に死人十六人、被創者廿余人ありて、義士一人も死せず、剩重創の者一人もなき事は如何ぞや、愚答て曰、孫武子謂る事あり、治衆如治寡、分數是也、多勢を治る事、小人數を治るがごとく、坐作進退節にあたりて、自由をなすものは分數なり、其分數とは、五伍を分つて、亦合して隊を作るをいふ、(五伍は陣法の根元なり、一騎の士卒、主從五人を以五とし、又それを五ッ合して、二十五人を以伍とせり、)大石良雄四十六人を以て、三人づつ組で十五に別つ、三人づゝ組ものは分なり、十五に別つものは數也、其十五を合して、一ッにかためたるものは隊なり、それを二ッに別て、一分は自是を率ひ、表門にさし向ふ、是則正兵なり、一分は其子主稅を長として、裏門にさし向す、是奇兵也、表門堅固にして破がたきにより、須臾に變化して自裏門にむかひ、
新字:一本心は仁義忠信に徹してうつらず、眼は孫呉韜略の書にさらし、軍旅の奥義を致むべき事、肝要なり、或人予に問ていはく、大石内蔵介良雄が党四十六人、吉良の宅を囲し時、吉良にも壮士五六十人も有べし、然に死人十六人、被創者廿余人ありて、義士一人も死せず、剰重創の者一人もなき事は如何ぞや、愚答て曰、孫武子謂る事あり、治衆如治寡、分数是也、多勢を治る事、小人数を治るがごとく、坐作進退節にあたりて、自由をなすものは分数なり、其分数とは、五伍を分つて、亦合して隊を作るをいふ、(五伍は陣法の根元なり、一騎の士卒、主従五人を以五とし、又それを五ッ合して、二十五人を以伍とせり、)大石良雄四十六人を以て、三人づつ組で十五に別つ、三人づゝ組ものは分なり、十五に別つものは数也、其十五を合して、一ッにかためたるものは隊なり、それを二ッに別て、一分は自是を率ひ、表門にさし向ふ、是則正兵なり、一分は其子主税を長として、裏門にさし向す、是奇兵也、表門堅固にして破がたきにより、須臾に変化して自裏門にむかひ、
書き下し
一本心は仁義忠信に徹してうつらず、眼は孫吳韜略の書にさらし、軍旅の奧義を致むべき事、肝要なり、或人予に問ていはく、大石內藏介良雄が黨四十六人、吉良の宅を圍し時、吉良にも壯士五六十人も有べし、然に死人十六人、被創者廿余人ありて、義士一人も死せず、剩重創の者一人もなき事は如何ぞや、愚答て曰、孫武子謂る事あり、治衆如治寡、分數是也、多勢を治る事、小人數を治るがごとく、坐作進退節にあたりて、自由をなすものは分數なり、其分數とは、五伍を分つて、亦合して隊を作るをいふ、(五伍は陣法の根元なり、一騎の士卒、主從五人を以五とし、又それを五ッ合して、二十五人を以伍とせり、)大石良雄四十六人を以て、三人づつ組で十五に別つ、三人づゝ組ものは分なり、十五に別つものは數也、其十五を合して、一ッにかためたるものは隊なり、それを二ッに別て、一分は自是を率ひ、表門にさし向ふ、是則正兵なり、一分は其子主稅を長として、裏門にさし向す、是奇兵也、表門堅固にして破がたきにより、須臾に變化して自裏門にむかひ、
現代語訳
一つ、本心は仁義忠信に徹して移らず、目は孫呉・六韜三略の書にさらし、軍旅の奥義を修めることが肝要です。ある人が私に問うて言いました。大石内蔵助良雄の一党四十六人が吉良の屋敷を囲んだとき、吉良方にも壮士が五、六十人はいたはずです。それなのに死者は十六人、負傷者は二十余人で、義士は一人も死なず、まして重傷の者も一人もいないのはどうしてでしょうか。愚答して言います。孫武子の言葉に、衆を治むること寡を治むるが如しとあります。分数がそれです。大勢を治めるのを小人数を治めるようにし、座作進退が節に当たって自由にできるのは分数によります。その分数とは、五と伍に分け、また合わせて隊を作ることをいいます(五伍は陣法の根元です。一騎の士卒、主従五人を五とし、またそれを五つ合わせた二十五人を伍とします)。大石良雄は四十六人を、三人ずつ組にして十五に分けました。三人ずつ組むのは分です。十五に分けるのは数です。その十五を合わせて一つに固めたのが隊です。それを二つに分け、一隊は自らこれを率いて表門に向かいます。これは正兵です。一隊はその子主税を長として裏門に向かわせます。これは奇兵です。表門が堅固で破りにくいので、たちまち変化して自ら裏門に向かい、
解説

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『武備和訓』・卷四・号令と一致した動きが備えの成果主稅をして表門に差遣す、是奇正の變化無窮して、因敵轉化すと云もの是なり、扨又鬪戰に、號令と云事肝要なり、喩へば平日寇讐の思ひをなせし人々も、讐家に入つて相鬪の間は、唯今組合たる面々、三人一身と合して、勝負を相助、少も自私の働をなすべからず、三人合體一人とするからは、本より手足相離るべき樣なしと、堅く令し、相詞を以て聲を聞、相印を以て色を見、耳目を用て心を決し、精銳驍勇の鼎兵、必死を誓ひて討入、是則四十余人の、進退一致にして、唯一人の手足耳目を用て、其動靜一心の欲する處に叶ふがごとし、其分數奇正號令節制皆能孫吳の規矩にかなへり、此理をもつて見る刻は、勝負自分明にして、いぶかる事なし、爰を以ておもふ時は、兵を用るの法は多少によらず、深く慮るべきの道なり、武人是を等閑の事にするは誠に悼むに餘りあり、されば武門に生れて、兵法の道にうとく、武備を忘るゝ時は、忠孝盡す事ならずといふものは爰なり、良雄が黨、兵法を鍛鍊して、武備をおさめたるが故に、能忠勇に達せりといへば、問人感服せり、
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『武備和訓』・卷四・将の器を測る智信仁勇厳の五徳一亦問、良雄は將の材器ありと、皆人謂り、然るや否や、答曰、良雄は三軍に將たるとも、其度量不足なきものか、問人願くば其詳なる事を聞む、愚云、夫大石氏は孫子のいへる智信仁勇嚴の五德を略兼たるもの也、將とは命を君に得て軍を統る者を將と云、軍とは人數の多少にしたがひて、敍をなして名目を立つるに、一萬二千五百人を以て一軍とせり、亂世には將と云、治世には輔弼の臣たり、良雄、君の不幸によりて、前後を辨る事なき時は、籠城の義を用ずして、世の褒貶を事ともせず、城を出で、自儒者の眞僞をし、敵を欺き、敵已に心を弛べ、備に怠る、又三百餘人の武士の能否を知、義士を擧、不臣を棄て、謀をして洩す事なきものは、是智なり、赤城を退く時、領中の鄕市に法令を出し、箋交易を止て、金銀に引換、諸借物等に至て、其返濟淸廉を盡して秋毫も犯す事なきは、是信なり、又用金を出して諸士に配する時、不臣の徒曰、知行高に應じて配すべしと、良雄曰、しからず、大臣小臣君をおもふ事ひとし、大臣は祿重きに依て、多く家財を貯ふ、小臣は足る事なければ家財少し、大臣は家財を沽却しても、三年は餓べからず、知行高に應じて割府せば、小臣の輩利少からんと云て、其身先づ金を少く收けり、莫求分則多といへるによく愜へり、是則仁なり、方に讐家に衝入て、白刄を蹈んで敵を挫ぎ、寇を得る事の晩きを恨て、諸士みな死むと憤怒するを、制して、死いまだ晩からず、號令のごとくは、兵を班さん事卯の刻也と、節制を加ふ、是則勇なり、四十餘人に令命するに、獨りも背くものなく、壯勇の士恐りて死なんと奮ふをも、能制之するに、一言半句も返す者なかりしは、是則嚴なり、これを合して將の五德といへり、恐くは古今の忠臣義士を辱ず、又三軍に將たるとも、其材に乏しからじ、國士無雙の人傑なりといへば、問人閉口す、
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孫子・勢篇孫子曰く、凡そ衆を治むること寡を治むるが如くなるは、分数是なり。衆を闘わしむること寡を闘わしむるが如くなるは、形名是なり。三軍の衆、必ず敵を受けて敗るる無からしむべき者は、奇正是なり。兵の加うる所、碫を以て卵に投ずるが如き者は、虚実是なり。
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『駿台雑話』兵法の大事(一)後日諸客來會しけるに、例の講はてゝ、翁いひけるは、各日比武田流の兵法を講ぜらるゝ、よしきゝ侍る、前日申せし信繁の敵近くならば人數をあらくつかふべしといはれしは、いかく輕き事のやうなれども、尤用兵の要を得たり、信繁も是にて毎度利を得て簡要の事と思はるればこそかく子息へもいひ傳へられけめ、此序に兵法の事をあら〱語り侍るべし、翁日ごろ兵書を考へ見るに兵術の要は孫武が十三篇にあり、十三篇の要は軍形兵勢の二篇にあり、おほよそ用兵の法は、形勢のふたつに過べからず、しばらく常語にていはゞ軍形は軍のかた、又は軍のもやうといはんかし、兵勢は兵のきをひ、又は兵の調子といはんかし、軍形は行師の法にして、兵勢は合戰の法なり、軍形は行師の法といふは、今僅百ばかりの人數とても廻して見給へ、それさへ末々迄は下知とゞかぬ物ぞかし、まいて三軍の師をまはすに、時に當ての下知ばかりにしては、いかで自由に廻るべき、たゞ將師たる人成算より割出して、軍伍を定め、手分を定め、約束を定め、其外の事迄分段を明かにして、人數を一定の形にはめて師をやれば、三軍ひとつもやうになりて、なにの造作もなく廻るべし、
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李衛公問対・卷中是に反すれば、則ち力逮(およ)ばざる有り。之を治むるの術に非ずんば、安んぞ能く兵に臨まんや。」太宗曰く、「今人の『孫子』を習ふ者は、但だ空文を誦するのみにして、克く其の義を推広すること鮮し。力を治むるの法は、宜しく偏く諸将に告ぐべし。」太宗曰く、「旧将老卒、凋零して殆ど尽き、諸軍新たに置かれ、陣敵を経ず。今教ふるに何の道を以てか要と為す。」靖曰く、「臣常に士を教ふるに、分かちて三等と為す。必ず先づ伍法を結び、伍法既に成れば、之を軍校に授く。此れ一等なり。軍校の法は、一を以て十と為し、十を以て百と為す。此れ一等なり。之を裨将に授け、裨将乃ち諸校の隊を総べ、聚めて陣図と為す。此れ一等なり。大将軍此の三等の教へを察し、是に於いて大いに閲し、制度を稽考し、奇正を分別し、衆に誓ひて罰を行ふ。陛下高きに臨みて之を観れば、施して可ならざる無し。」太宗曰く、「伍法に数家有り、孰れか要と為す。」靖曰く、「臣案ずるに、『春秋』左氏伝に云ふ、『偏を先にし伍を後にす』と。又『司馬法』に曰く、『五人を伍と為す』と。『尉繚子』に「束武令」有り、漢の制に尺籍伍符有り。後世の符籍は、紙を以て之を為る。是に於いて其の制を失へり。臣其の法を酌み、五人より変じて二十五人と為し、二十五人より変じて七十五人と為す。此れ則ち歩卒七十二人、甲士三人の制なり。車を舎てて騎を用ゐれば、則ち二十五人は八馬に当たる。此れ則ち五兵五当の制なり。是れ則ち諸家の兵法、唯だ伍法を要と為す。小列の五人、大列の二十五人、参列の七十五人、又五たび其の数を参(まじ)へて、三百七十五人を得。三百人を正と為し、六十人を奇と為す。此れ則ち百五十人分かれて二正と為り、三十人分かれて二奇と為る。蓋し左右等しきなり。穰苴の所謂『五人を伍と為し、十伍を隊と為す』、今に至るまで之に因る。此れ其の要なり。」
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『長短経』教戦故に曰く、衆を治むること寡を治むるが如きは、分数是れなり〔部曲を分と為し、什五を数と為す〕。衆を闘わすこと少なきを闘わすが如きは、形名是れなり〔旌旗を形と曰い、金鼓を名と曰う〕。言相聞こえず、故に鼓鐸を為る。視相見えず、故に旌旗を為る。夫れ金鼓旌旗は、人の耳目を一にする所以なり〔夜戦には火鼓多く、昼戦には旌旗多し。人の耳目を変ずる所以なり〕。是に知る、鼓鞞金鐸は、耳を威す所以なり。旌旗麾章は、目を威す所以なり。禁令刑罰は、心を威す所以なり。耳は声に威さるれば、清ならざるべからず。目は色に威さるれば、明ならざるべからず。心は罰に威さるれば、厳ならざるべからず。三者立たざれば、勝つと雖も必ず敗る。故に曰く「将の麾く所、従いて移らざる莫く、将の指す所、前みて死せざる莫し」と。紛紛紜紜として、闘い乱るるも乱すべからず。混混沌沌として、形円くして敗るべからず。此れ衆を用うるの法なり。