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武備和訓 / 卷三・鉄砲を軽んじず、その価値を知る

一鳥銃は夫近世の兵器、月々年々に名人競出て、尤古流は用るに不足もの也、されば故實のいふべきものなくして、唯武門貶卑の器とする事、悼に餘れり、此器ありて、長兵、短兵、弓弩ともに用る處を知らず、唯一人の達人あらば、孫吳の利兵、孔明衞公が堅陣たりとも、挫くにかたからず、連城銃、大銃に巧妙の人あらば、是萬人の敵成べし、(漢の樊噲關張等は人萬人の敵と稱せり)羅山先生、井上重繼(外記と稱せり大神君鐵砲の師範なり、)の、よく萬斤の大銃を一二人にて是を放つ、其巧機捷輕、大敵を挫くの至功を書れしを、彼の文集に載たり、大神君も、慶長十六年八月十三日、淺間ノ山に登り、的を二町の外にかけて、手自大銃を射給ふ事三たびにして、三たび中る、又井上氏に台命ありて、しば〱此藝を精熟せしめ、且多くの大銃を作しめ給ふ、近世の巧手は、其時代に十倍して、奇巧の妙をなす事、勝て謂がたし、寬永年中、肥前國耶蘇一揆の時世上みな大銃ありといへども、其藝未精により、九州の諸侯連城銃を運步して城を打拔むとすれども、巧手なくして、皆的を失ひ、城にあたらず、阿蘭陀人を召して打しむるに、日本人より拙手にて、皆後の海に鉛玉を打やり、番和の砲者家流、みな〱手を空ふせり、若當世のごとき名人あらば、其賊一日もよく城にかゝわらんや、城中小銃の上手大勢在し故、小城に據て大軍を拒む事、數月にして年を越たり、松平豆州能其功を知るゝにより、一世の間家臣に鐵砲を習しめられし事最大なり、尤其藝の優劣を明辨して、習ずんばあるべからず、

新字:一鳥銃は夫近世の兵器、月々年々に名人競出て、尤古流は用るに不足もの也、されば故実のいふべきものなくして、唯武門貶卑の器とする事、悼に余れり、此器ありて、長兵、短兵、弓弩ともに用る処を知らず、唯一人の達人あらば、孫呉の利兵、孔明衛公が堅陣たりとも、挫くにかたからず、連城銃、大銃に巧妙の人あらば、是万人の敵成べし、(漢の樊噲関張等は人万人の敵と称せり)羅山先生、井上重継(外記と称せり大神君鉄砲の師範なり、)の、よく万斤の大銃を一二人にて是を放つ、其巧機捷軽、大敵を挫くの至功を書れしを、彼の文集に載たり、大神君も、慶長十六年八月十三日、浅間ノ山に登り、的を二町の外にかけて、手自大銃を射給ふ事三たびにして、三たび中る、又井上氏に台命ありて、しば〱此芸を精熟せしめ、且多くの大銃を作しめ給ふ、近世の巧手は、其時代に十倍して、奇巧の妙をなす事、勝て謂がたし、寛永年中、肥前国耶蘇一揆の時世上みな大銃ありといへども、其芸未精により、九州の諸侯連城銃を運歩して城を打抜むとすれども、巧手なくして、皆的を失ひ、城にあたらず、阿蘭陀人を召して打しむるに、日本人より拙手にて、皆後の海に鉛玉を打やり、番和の砲者家流、みな〱手を空ふせり、若当世のごとき名人あらば、其賊一日もよく城にかゝわらんや、城中小銃の上手大勢在し故、小城に拠て大軍を拒む事、数月にして年を越たり、松平豆州能其功を知るゝにより、一世の間家臣に鉄砲を習しめられし事最大なり、尤其芸の優劣を明弁して、習ずんばあるべからず、

書き下し

一鳥銃は夫近世の兵器、月々年々に名人競出て、尤古流は用るに不足もの也、されば故實のいふべきものなくして、唯武門貶卑の器とする事、悼に餘れり、此器ありて、長兵、短兵、弓弩ともに用る處を知らず、唯一人の達人あらば、孫吳の利兵、孔明衞公が堅陣たりとも、挫くにかたからず、連城銃、大銃に巧妙の人あらば、是萬人の敵成べし、(漢の樊噲關張等は人萬人の敵と稱せり)羅山先生、井上重繼(外記と稱せり大神君鐵砲の師範なり、)の、よく萬斤の大銃を一二人にて是を放つ、其巧機捷輕、大敵を挫くの至功を書れしを、彼の文集に載たり、大神君も、慶長十六年八月十三日、淺間ノ山に登り、的を二町の外にかけて、手自大銃を射給ふ事三たびにして、三たび中る、又井上氏に台命ありて、しば〱此藝を精熟せしめ、且多くの大銃を作しめ給ふ、近世の巧手は、其時代に十倍して、奇巧の妙をなす事、勝て謂がたし、寬永年中、肥前國耶蘇一揆の時世上みな大銃ありといへども、其藝未精により、九州の諸侯連城銃を運步して城を打拔むとすれども、巧手なくして、皆的を失ひ、城にあたらず、阿蘭陀人を召して打しむるに、日本人より拙手にて、皆後の海に鉛玉を打やり、番和の砲者家流、みな〱手を空ふせり、若當世のごとき名人あらば、其賊一日もよく城にかゝわらんや、城中小銃の上手大勢在し故、小城に據て大軍を拒む事、數月にして年を越たり、松平豆州能其功を知るゝにより、一世の間家臣に鐵砲を習しめられし事最大なり、尤其藝の優劣を明辨して、習ずんばあるべからず、

現代語訳

一つ、鳥銃(鉄砲)は近世の兵器で、月々年々に名人が競って現れ、古い流派はとても用いるに足りません。それなのに故実のいうべきものがなく、ただ武門が貶めるべき器とされることは、悼ましさの余りあることです。この器があれば、長兵・短兵・弓弩ともに用いる所を知りません。ただ一人の達人がいれば、孫子・呉子の利兵や、諸葛孔明・李衛公の堅陣であっても、挫くことは難しくありません。連城銃・大銃に巧妙な人がいれば、これは万人の敵となるでしょう(漢の樊噲・関羽・張飛らは万人の敵と称されました)。林羅山先生が、井上重継(外記と称し、大神君(徳川家康)の鉄砲の師範です)が、万斤の大銃を一、二人で放ち、その巧みな機の敏捷軽快さで大敵を挫く至功を書かれたことが、その文集に載っています。大神君も、慶長十六年八月十三日に、浅間山に登り、的を二町(約二百メートル余り)の外に掛けて、自ら大銃を射たもうこと三度で、三度とも当たりました。また井上氏に台命があって、しばしばこの芸を精熟させ、さらに多くの大銃を作らせました。近世の巧みな者は、その時代の十倍にして奇巧の妙を成し、勝って言い難いほどです。寛永年中、肥前国の耶蘇(キリシタン)一揆の時、世間にはみな大銃がありましたが、その芸がまだ精しくなかったため、九州の諸侯が連城銃を運び歩かせて城を打ち抜こうとしても、巧手がなくみな的を外し、城に当たりませんでした。阿蘭陀(オランダ)人を召して撃たせましたが、日本人より拙く、みな後ろの海に鉛玉を打ち込み、番和(交代)の砲術家流はみな手を空しくしました。もし当世のような名人がいれば、その賊は一日でも城にかかわっていられたでしょうか。城中に小銃の上手が大勢いたため、小城に拠って大軍を拒むこと数か月、年を越えました。松平豆州(松平信綱)はよくその功を知ったため、一生の間、家臣に鉄砲を習わせたことが非常に大きなことでした。その芸の優劣をよく見極めて、習わなければなりません。

解説

鉄砲を卑しい器とする風潮を悼み、達人が一人いれば大きな力になると説く章句です。島原の乱(肥前の一揆)で、技量の未熟さゆえに大銃が当たらず、小銃の上手が籠もる城が数か月持ちこたえた例を挙げ、技術の習熟が結果を分けると述べます。戦いの話は歴史的な文脈として読み、現代では、新しい技術や道具を食わず嫌いせず、実際に習熟することの大切さとして受け取れます。管理職は、新技術への先入観を捨て、チームで学び、技量を高める機会を用意すべきです。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

『武備和訓』片島武矩武備武芸鉄砲心得

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