武備和訓 / 卷五・虚実を問うな、武士は偽らず志を遂げる
一貫目玉の鐵砲を抱て小筒のごとく放之躰あり、彼城下におゐては、矢數のごとく大筒の數放しを致し、三拾目筒にて、一日に三千放、五拾目筒にて、二千放などゝ打、剩一貫目玉七百目玉を小筒のごとく打候事、前代未聞日本無双と申も理か、加之、棒火矢、石火矢、大銃、小銃、都て火器一統の達人、大野佐五右衞門吉矩と申者在之よし、稻葉とは流もちがひ候得共、彼一貫目玉の大銃を稻葉放之時數百人の巧手見物すといへども、彼の大野を撿使に乞請、彼が證文を取て掛物と致し、數百人の砲者を饗應致候と承傳候、いかにも其外の武藝も右鐵砲のごとく勵候と承候、拾匁筒さへ打にくきもの也、此儀虛實の問難辨候、其態實にして用に立事にて可有候や、愚答曰、虛實の問難辨とは大なる僻事、武士のいふまじき事に候、武士たる者の僞を以其ごとき事を可仕哉、殊に神社佛閣に我志の遂たる願成就の繪馬をかけたりと見たり、尤其事名聞に似たれども、武藝に於て天下に雙なき人となりて、如此嗚呼がましわざをなしたらんは、誠に壯士の本意にあらずや、弓の堂を射るよりかも其態は上なるべし、又用に立不立事は、貴殿よく弓を射られ候、一寸の弓を自由に肩入し、卷稿をも射られ候はゞ、八分の弓は荒木たりとも射安かるべく候、乍然其一寸の弓を以戰塲の高名は難成候、彼稻葉も一貫目だに打候間、百目二百目の鐵砲は平人の三匁五分玉を打候ごとく、自由可仕候、乍然それを仕かけて、石火矢のこゝろに憖に態をいたし候はゞ、誠の達人と可申哉、(右大野氏稻葉氏が精妙を得たる事、和漢三才圖會に載たり、)
新字:一貫目玉の鉄砲を抱て小筒のごとく放之体あり、彼城下におゐては、矢数のごとく大筒の数放しを致し、三拾目筒にて、一日に三千放、五拾目筒にて、二千放などゝ打、剰一貫目玉七百目玉を小筒のごとく打候事、前代未聞日本無双と申も理か、加之、棒火矢、石火矢、大銃、小銃、都て火器一統の達人、大野佐五右衛門吉矩と申者在之よし、稲葉とは流もちがひ候得共、彼一貫目玉の大銃を稲葉放之時数百人の巧手見物すといへども、彼の大野を撿使に乞請、彼が証文を取て掛物と致し、数百人の砲者を饗応致候と承伝候、いかにも其外の武芸も右鉄砲のごとく励候と承候、拾匁筒さへ打にくきもの也、此儀虚実の問難弁候、其態実にして用に立事にて可有候や、愚答曰、虚実の問難弁とは大なる僻事、武士のいふまじき事に候、武士たる者の偽を以其ごとき事を可仕哉、殊に神社仏閣に我志の遂たる願成就の絵馬をかけたりと見たり、尤其事名聞に似たれども、武芸に於て天下に双なき人となりて、如此嗚呼がましわざをなしたらんは、誠に壮士の本意にあらずや、弓の堂を射るよりかも其態は上なるべし、又用に立不立事は、貴殿よく弓を射られ候、一寸の弓を自由に肩入し、巻稿をも射られ候はゞ、八分の弓は荒木たりとも射安かるべく候、乍然其一寸の弓を以戦塲の高名は難成候、彼稲葉も一貫目だに打候間、百目二百目の鉄砲は平人の三匁五分玉を打候ごとく、自由可仕候、乍然それを仕かけて、石火矢のこゝろに憖に態をいたし候はゞ、誠の達人と可申哉、(右大野氏稲葉氏が精妙を得たる事、和漢三才図会に載たり、)
書き下し
一貫目玉の鐵砲を抱て小筒のごとく放之躰あり、彼城下におゐては、矢數のごとく大筒の數放しを致し、三拾目筒にて、一日に三千放、五拾目筒にて、二千放などゝ打、剩一貫目玉七百目玉を小筒のごとく打候事、前代未聞日本無双と申も理か、加之、棒火矢、石火矢、大銃、小銃、都て火器一統の達人、大野佐五右衞門吉矩と申者在之よし、稻葉とは流もちがひ候得共、彼一貫目玉の大銃を稻葉放之時數百人の巧手見物すといへども、彼の大野を撿使に乞請、彼が證文を取て掛物と致し、數百人の砲者を饗應致候と承傳候、いかにも其外の武藝も右鐵砲のごとく勵候と承候、拾匁筒さへ打にくきもの也、此儀虛實の問難辨候、其態實にして用に立事にて可有候や、愚答曰、虛實の問難辨とは大なる僻事、武士のいふまじき事に候、武士たる者の僞を以其ごとき事を可仕哉、殊に神社佛閣に我志の遂たる願成就の繪馬をかけたりと見たり、尤其事名聞に似たれども、武藝に於て天下に雙なき人となりて、如此嗚呼がましわざをなしたらんは、誠に壯士の本意にあらずや、弓の堂を射るよりかも其態は上なるべし、又用に立不立事は、貴殿よく弓を射られ候、一寸の弓を自由に肩入し、卷稿をも射られ候はゞ、八分の弓は荒木たりとも射安かるべく候、乍然其一寸の弓を以戰塲の高名は難成候、彼稻葉も一貫目だに打候間、百目二百目の鐵砲は平人の三匁五分玉を打候ごとく、自由可仕候、乍然それを仕かけて、石火矢のこゝろに憖に態をいたし候はゞ、誠の達人と可申哉、(右大野氏稻葉氏が精妙を得たる事、和漢三才圖會に載たり、)
現代語訳
一貫目玉の鉄砲を抱えて小筒のように放つ姿を描いた絵を掲げた、とも尋ねられました。その城下では、矢数のように大筒の数放しをして、三十目筒で一日に三千放、五十目筒で二千放などを撃ち、そのうえ一貫目玉・七百目玉を小筒のように撃つことは、前代未聞で日本無双と申すのも、道理でしょうか。そればかりか、棒火矢・石火矢・大銃・小銃、すべて火器一統の達人に、大野佐五右衛門吉矩という者がいるそうです。稲葉とは流派が違いますが、その一貫目玉の大銃を稲葉が放ったとき、数百人の巧みな者が見物しましたが、その大野を検使に請い受け、その証文を取って掛け物にして、数百人の砲術者をもてなしたと伝え聞いています。いかにもそのほかの武芸も、鉄砲のように励んでいると聞きます。十匁筒でさえ撃ちにくいものです。この話は虚実の判断がつきません。その技は実際に役に立つものでしょうか、と。私は答えて言いました。虚実の判断がつかないと問うことは大きな偏見で、武士の言うべきことではありません。武士たる者が偽りでそのようなことをするでしょうか。ことに神社仏閣に、わが志を遂げた願成就の絵馬を掛けたのを見ました。もちろん、そのことは名聞に似ていますが、武芸で天下に並ぶ者のない人となり、このように目立つことをしたならば、まことに壮士の本意ではありませんか。弓で堂を射るよりも、その技は上でしょう。また、役に立つか立たないかについては、あなたはよく弓を射られます。一寸の弓を自由に肩入れし、巻藁も射られれば、八分の弓は荒木であっても射やすいでしょう。しかし、その一寸の弓で戦場の高名は難しいでしょう。あの稲葉も一貫目さえ撃ちますので、百目・二百目の鉄砲は、普通の人が三匁五分玉を撃つように自由にできます。しかし、それを仕掛けて、石火矢のつもりで下手に技をなすなら、本当の達人と言えるでしょうか(右の大野氏・稲葉氏が精妙を得たことは、和漢三才図会に載っています)。
解説

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