武備和訓 / 卷二・武芸は本を務め、大矢数に惑わない
一武藝を習ふに、務て其本を致る時は、勞せずして差ざるに近かるべし、本と云は兵法軍旅の藝也、爰に近世弓道に、大矢數と云事あり、先づ戰陣の道を以て論ずる時は、弓を用て武者を射仆す事は、十三四間の內外たるべし、なべての射人、征矢を以人形を射るに、十五間已上にては不中、若あたりても鎧を徹す事なし、葛西園右衞門は古今無雙の射人、大樹の御前におゐて、射塲を三十間に構へ、根矢を以人形を射けるに、三十筋にて二十九筋を中たり、或射人の曰、大矢數の權輿、淺岡平兵衞(慶長年中初而通矢五十一筋)より、和佐大八に至て、尤も絕倫なる者は、葛西氏なりと、然れば園右衞門といふとも、三十間より遠くしては、鎧武者を射殪す事成べからず、敵間三十間より只七八間(六七間より士卒刀劔の勝負に及ぶべし)に至まで、矢番早く射出すつもり、凡征矢五十筋計なるべし、又葛西和佐等に少劣たるは、十八九間より、七八間までの間、漸二三十筋に過べからず、又それに劣たる弱弓は、十三四間より七八間の間に、十五六筋を射出す事、精際なるべし、然るに大矢數は、通矢已に九千筋に及べり、是其用、何如事をしらず、又古今の强弓、鎧武者を重て三騎も徹したりと云例もなし、北宋の將軍岳飛と云者孫吳の書に通じ、百戰して一たびも負ず、百斤の弓を持て能左右に射て人を仆すと、本朝百斤の弓を射る者不少して、未左右に射る人を不聞、能之せば又名達の人なるべし、源爲朝の一箭に、艦を射沈たるがごときは、古今第一の强弓にて、規と成べきものにあらず、
新字:一武芸を習ふに、務て其本を致る時は、労せずして差ざるに近かるべし、本と云は兵法軍旅の芸也、爰に近世弓道に、大矢数と云事あり、先づ戦陣の道を以て論ずる時は、弓を用て武者を射仆す事は、十三四間の内外たるべし、なべての射人、征矢を以人形を射るに、十五間已上にては不中、若あたりても鎧を徹す事なし、葛西園右衛門は古今無双の射人、大樹の御前におゐて、射塲を三十間に構へ、根矢を以人形を射けるに、三十筋にて二十九筋を中たり、或射人の曰、大矢数の権輿、浅岡平兵衛(慶長年中初而通矢五十一筋)より、和佐大八に至て、尤も絶倫なる者は、葛西氏なりと、然れば園右衛門といふとも、三十間より遠くしては、鎧武者を射殪す事成べからず、敵間三十間より只七八間(六七間より士卒刀剣の勝負に及ぶべし)に至まで、矢番早く射出すつもり、凡征矢五十筋計なるべし、又葛西和佐等に少劣たるは、十八九間より、七八間までの間、漸二三十筋に過べからず、又それに劣たる弱弓は、十三四間より七八間の間に、十五六筋を射出す事、精際なるべし、然るに大矢数は、通矢已に九千筋に及べり、是其用、何如事をしらず、又古今の強弓、鎧武者を重て三騎も徹したりと云例もなし、北宋の将軍岳飛と云者孫呉の書に通じ、百戦して一たびも負ず、百斤の弓を持て能左右に射て人を仆すと、本朝百斤の弓を射る者不少して、未左右に射る人を不聞、能之せば又名達の人なるべし、源為朝の一箭に、艦を射沈たるがごときは、古今第一の強弓にて、規と成べきものにあらず、
書き下し
一武藝を習ふに、務て其本を致る時は、勞せずして差ざるに近かるべし、本と云は兵法軍旅の藝也、爰に近世弓道に、大矢數と云事あり、先づ戰陣の道を以て論ずる時は、弓を用て武者を射仆す事は、十三四間の內外たるべし、なべての射人、征矢を以人形を射るに、十五間已上にては不中、若あたりても鎧を徹す事なし、葛西園右衞門は古今無雙の射人、大樹の御前におゐて、射塲を三十間に構へ、根矢を以人形を射けるに、三十筋にて二十九筋を中たり、或射人の曰、大矢數の權輿、淺岡平兵衞(慶長年中初而通矢五十一筋)より、和佐大八に至て、尤も絕倫なる者は、葛西氏なりと、然れば園右衞門といふとも、三十間より遠くしては、鎧武者を射殪す事成べからず、敵間三十間より只七八間(六七間より士卒刀劔の勝負に及ぶべし)に至まで、矢番早く射出すつもり、凡征矢五十筋計なるべし、又葛西和佐等に少劣たるは、十八九間より、七八間までの間、漸二三十筋に過べからず、又それに劣たる弱弓は、十三四間より七八間の間に、十五六筋を射出す事、精際なるべし、然るに大矢數は、通矢已に九千筋に及べり、是其用、何如事をしらず、又古今の强弓、鎧武者を重て三騎も徹したりと云例もなし、北宋の將軍岳飛と云者孫吳の書に通じ、百戰して一たびも負ず、百斤の弓を持て能左右に射て人を仆すと、本朝百斤の弓を射る者不少して、未左右に射る人を不聞、能之せば又名達の人なるべし、源爲朝の一箭に、艦を射沈たるがごときは、古今第一の强弓にて、規と成べきものにあらず、
現代語訳
一つ、武芸を習うのに、つとめてその本を尽くすときは、労せずして誤りなく近づくことができるでしょう。本というのは兵法・軍旅の芸です。ここに近世の弓道で大矢数ということがあります。まず戦陣の道で論じるとき、弓を用いて武者を射倒すのは、十三、四間の内外でしょう。すべての射手が、征矢で人形を射ても、十五間以上では当たらず、もし当たっても鎧を貫くことはありません。葛西園右衛門は古今無双の射手で、大樹(将軍)の御前で、射場を三十間に構え、根矢で人形を射たところ、三十筋のうち二十九筋を当てました。ある射手は、大矢数の始まりである浅岡平兵衛(慶長年間に初めて通し矢五十一筋)から和佐大八に至るまで、もっとも抜きん出た者は葛西氏だと言いました。そうであれば、園右衛門といえども三十間より遠くては、鎧武者を射倒すことはできないはずです。敵との間が三十間から、わずか七、八間(六、七間で士卒は刀剣の勝負に及ぶでしょう)に至るまでに、矢継ぎ早に射出す見積もりは、おおよそ征矢五十筋ほどです。また、葛西・和佐らにやや劣る者は、十八、九間から七、八間までの間に、わずかに二、三十筋を超えないでしょう。さらにそれに劣る弱弓は、十三、四間から七、八間の間に、十五、六筋を射出すのが精一杯でしょう。ところが大矢数は、通し矢がすでに九千筋に及んでいます。その用がどのようなものか知りません。また古今の強弓で、鎧武者を重ねて三騎も貫いたという例もありません。北宋の将軍、岳飛という者は孫子・呉子の書に通じ、百戦して一度も負けず、百斤の弓を持って左右によく射て人を倒したといいます。日本でも百斤の弓を射る者は少なくありませんが、まだ左右に射る人を聞きません。もしそれができれば、名の通った人になるでしょう。源為朝の一矢で船を射沈めたようなものは、古今第一の強弓であって、規範とすべきものではありません。
解説

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『武備和訓』・卷二・名聞を捨て、武芸の本理を失わない一葛西和佐が如き絕代の强弓、城中にある時、城には必堭壘あり、小城といへども、堭幅乃至十間より狹きはなきもの也、少廣ければ、十五間、廿間、大城の外塹、皆五十間、百間に至る、又壘の數あり、其最小城にして、堭壘十七八間なり、是を射越て、廿餘間にて、よく鎧武者を仆すにあらざれば、强弓の城に在ての能は無之者か、其上矢狹間よりは、射にくきものに究れり、然れば天下無雙の射人といふとも、城上より廿餘間の敵は制する事かたかるべきものか、籠城は、敵塀際に迫るまで、矢をはなつ事相成べきものなれば、尤射出す處の矢數數百筋にも及ぶべし、然らば矢數を射出す事の多少を以、藝の優劣をいはゞ、籠城には、合戰よりかも、其益多かるものか、尤戰陣におゐては、左の拳に鎗の鋒先のあたるまで、能矢をはなつものを、達射の人とはいへり、とかく武藝におゐては名聞をいたすべからず、名聞を好んで、武藝の本理を失ふものは、却て藝を知らざるには劣るべし、たとへば刀劔上に、金銀をちりばめ、鞘に鈍刀をおさめて指がごとし、是其鈍刀を指んより、丸腰なるものこそ潔からめといふ處に武あり、武士能く軍旅の道理に通じ、本を明にして、其餘の藝を習はゞ、必勝の本理を得べし、
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