武備小学抄録 / 自序・先師の志と武備小學序の前半
夏飲水寒遺裕是通情也。今也。本國之榮不異貞觀開元之治矣。是以之故爲士者。好學遊藝。家々戸々皆然。予先師神戸嘉豐自八歲志於武。常繼晷秉燭而勤之。乃至軍術之精粗及步卒賤夫之事。悉無不研窮之。及其壯鳴其術於世焉。可謂暑不忘寒。冬不還裕者也。先師以爲。孫吳之書者爲將者兵法。而於士卒賤夫之業未見其全書矣。深憂之著匹夫受用集。以敎二三子。實所謂不恥孫吳者也。予雖不敏豈阿其所好乎。先師之俊傑人口是碑也。先師今歲六十有八。
新字:夏飲水寒遺裕是通情也。今也。本国之栄不異貞観開元之治矣。是以之故為士者。好学遊芸。家々戸々皆然。予先師神戸嘉豊自八歳志於武。常継晷秉燭而勤之。乃至軍術之精粗及歩卒賤夫之事。悉無不研窮之。及其壮鳴其術於世焉。可謂暑不忘寒。冬不還裕者也。先師以為。孫呉之書者為将者兵法。而於士卒賤夫之業未見其全書矣。深憂之著匹夫受用集。以教二三子。実所謂不恥孫呉者也。予雖不敏豈阿其所好乎。先師之俊傑人口是碑也。先師今歳六十有八。
書き下し
夏に水を飲み、寒に裕を遺る、是れ情に通ずるなり。今や、本國の榮、貞觀・開元の治に異ならず。是を以ての故に士たる者、學を好み藝に遊ぶこと、家々戸々皆然り。予が先師神戸嘉豐、八歲より武に志し、常に晷を繼ぎ燭を秉りて之に勤む。乃ち軍術の精粗、及び步卒賤夫の事に至るまで、悉く之を研窮せざる無し。其の壯なるに及び其の術を世に鳴らす。暑に寒を忘れず、冬に裕を還さざる者と謂ふべし。先師以爲へらく、孫吳の書は將たる者の兵法にして、士卒賤夫の業に於ては未だ其の全書を見ず、と。深く之を憂ひ匹夫受用集を著し、以て二三子に敎ふ。實に所謂孫吳を恥ぢざる者なり。予不敏と雖も豈に其の好む所に阿らんや。先師の俊傑、人口に是れ碑なり。先師今歲六十有八。
現代語訳
夏には水を飲み、寒さには袷(あわせ)を贈る、これは人の情に通じることです。今やわが国の栄えは、唐の貞観・開元の治(太平の世)に劣りません。そのため士たる者は学問を好み芸に遊ぶことが、どの家でも皆そうなっています。私の亡き師・神戸嘉豐は、八歳から武に志し、いつも日を継ぎ燭を取って励みました。軍術の精粗から歩卒・身分の低い者の務めに至るまで、すべて研究し尽くさないものはなく、壮年になってその術を世に鳴らしました。暑いときにも寒さを忘れず、冬にも袷を手放さない者と言えます。先師は、孫子・呉子の書は将たる者の兵法であって、士卒や身分の低い者の務めについてはまだ完全な書を見ない、と考え、深く憂えて『匹夫受用集』を著し、数人の弟子に教えました。まさに孫子・呉子に引け目を感じない人です。私は不敏ですが、どうして師の好むところにこびへつらうでしょうか。先師の俊傑ぶりは人々の口にのぼる碑のようなものです。先師は今年六十八歳です。
解説

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