弁名 / 物
物者。敎之條件也。古之人學以求成德於己。故敎人者敎以條件。學者亦以條件守之。如鄕三物。射五物。是也。葢六藝皆有之。成德之節度也。習其事久之。而所守者成。是謂物格。方其始受敎。而物尙不有於我。辟諸在彼而不來焉。及於其成。而物爲我有。辟諸自彼來至焉。謂其不容力也。故曰物格。格者來也。敎之條件得於我。則知自然明。是謂知至。亦謂不容力也。
新字:物者。教之条件也。古之人学以求成徳於己。故教人者教以条件。学者亦以条件守之。如郷三物。射五物。是也。葢六芸皆有之。成徳之節度也。習其事久之。而所守者成。是謂物格。方其始受教。而物尚不有於我。辟諸在彼而不来焉。及於其成。而物為我有。辟諸自彼来至焉。謂其不容力也。故曰物格。格者来也。教之条件得於我。則知自然明。是謂知至。亦謂不容力也。
書き下し
物とは教の条件なり。古の人は学びて以て徳を己に成すを求む。故に人を教ふる者は教ふるに条件を以てし、学ぶ者も亦た条件を以て之を守る。郷の三物、射の五物の如き、是なり。蓋し六芸に皆之有り、徳を成すの節度なり。其の事を習ふこと之を久しくして、守る所の者成る、是れ之を物格ると謂ふ。其の始めて教を受くるに方りては、物尚ほ我に有らず、諸を辟ふれば彼に在りて来らざるがごとし。其の成るに及びては、物我が有と為る、諸を辟ふれば彼より来り至るがごとし。其の力を容れざるを謂ふなり。故に物格ると曰ふ。格とは来るなり。教の条件我に得れば、則ち知自然に明らかなり。是れ之を知至ると謂ふ。亦た力を容れざるを謂ふなり。
現代語訳
「物」とは、教えの条目である。古の人は学んで自分に徳を成そうとした。だから人を教える者は条目によって教え、学ぶ者も条目によってそれを守った。「郷の三物(六徳・六行・六芸)」「射の五物」というのがそれである。思うに六芸にはどれも条目があり、徳を成すための節度である。その事を長く習って、守ってきたものが成就する。これを「物格る」という。初めて教えを受けた時には、物はまだ自分のものになっておらず、たとえば向こうにあってこちらへ来ないようなものである。それが成就すると、物は自分のものとなる。たとえば向こうからやって来るようなものである。力ずくではできないことをいうのである。だから「物格る」という。格とは「来る」という意味である。教えの条目が自分のものになれば、知は自然に明らかになる。これを「知至る」という。これも力ずくではできないことをいう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』物且つ中庸に「己を成すは仁なり、物を成すは知なり」と曰ふが如き、亦た学問の道を謂ふなり。学びて徳を己に成す、其の後来統会する者を以て之を言ふ、故に仁なりと曰ふ。受くる所の教件に成功有り、是れ所謂物格るなり。物格りて而る后に知至る、故に知なりと曰ふ。又孟子曰く、「万物皆我に備はる。身に反りて誠なれば、楽しみ焉より大なるは莫し」と。亦た此を謂ふなり。教の条件は其の数甚だ多し、故に万物と曰ふ。皆我に有るの事なり、故に皆我に備はると曰ふ。之を習ふこと熟して而る後に我が有と為る。我が有と為れば則ち思はずして得、勉めずして中る。是れ之を身に反りて誠なりと謂ふ。爾らずして、天地間の万物我に備はると謂はば、則ち孟子の時、豈に此の荒唐の論有らんや。是れ皆古言を知らざるの失なり。
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『弁名』學知行に至りては則ち然らず。知とは真に之を知るを謂ふなり。行とは力めて之を行ふを謂ふなり。力行の久しき、習熟の至りて、而る後真に之を知る。故に知必ずしも先ならず、行必ずしも後ならず。「之を知るの艱きに非ず、之を行ふこと惟れ艱し」と曰ふが如き、行は必ず之を力む、故に艱と曰ふ。知は力を容れず、黙して之を識るを貴ぶ、故に艱に非ずと曰ふ。古の道爲り。朱子又大学の格物・致知・誠意・正心・脩身に拠りて、以て知先行後の説を立つ。殊に知らず、大学の所謂格物とは、亦た其の事を習ひて之に熟し、自然に得る所有りて而る後知生ずるを謂ふのみなるを。孟子の徳慧術知の如きも亦た然り。唯だ徳は慧を生じ、唯だ術は知を生ず。亦た古言なり。
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『弁名』物鄭玄の大学を解するに、格を訓じて来と為す、古訓の尚ほ存する者爲り。朱子は解して究理と為す。究理は聖人の事なり、豈に之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物理を究至す」と。是れ格物に究理を加へて而る後に義始めて成る。文外に意を生ずと謂ふべし。豈に妄に非ずや。且つ古の所謂知至るとは、諸を身に得て而る後に知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を究めて吾が知を致さんと欲す。強ふと謂ふべきのみ。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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『大和俗訓』巻之二・為学下一大学に、格物致知を以て道理を明かに知るを、身ををさめ人ををさむる勤のはじめとす。格物とは万事万物の道理にきはめ至るを云ひ、致知とはわが心の知をきはめて明かにするなり。格物の次第は、まづ五常五倫の道、身を治め家をととのふるまぢかき事よりして、次第を以て、やうやく国天下ををさむる理にきはめ至る。是格物なり。かくのごとく万事万物につきて理をきはむれば、わが心の知おのづから明かになる。是致知なり。故に格物の外に致知の工夫なし。是大学のつとめのはじめなり。其次は誠意にあり。意とは心のはじめておこる所の苗なり。心の体はしづかにして、善悪いまだあらはれず。其初てうごく時、善も悪もあらはる。意のおこる時に、このむと悪むとの二あり。
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『弁名』智然れども其の之を失ふ所以を求むれば、則ち孟子に昉まるか。孟子曰く、「是非の心は、智の端なり」と。其の意も亦た聖人の道は人の性に率ひて立つと謂ふ。祇だ弁を好むの甚だしき、其の言の弊有るを覚えざるのみ。後儒之を察せず、乃ち天下の理曉然として洞徹し疑惑する所莫きを以て解と為す。殊に知らず、是れ世俗の所謂智にして、先王の道の尚ぶ所に非ざることを。孔子曰く、「択びて仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん」と。又曰く、「知者は仁を利とす」と。是れ其の意、仁より尚きは莫きを知るを謂ふ。知らざる者は則ち又た天下の理を究め尽くして、而る後に仁より尚きは莫きを知ると謂ふ。故に宋儒に格物究理の説有り。又た究理は本と聖人の易を作るを賛するの言にして、学者の事に非ざるを知らず。大学の所謂格物とは、其の事を習ふことの久しくして、自然に得る所有り、得る所有りて後に知る所始めて明らかなるを謂ふ。故に曰く、「物格りて后に知至る」と。豈に天下の理を究め尽くすの謂ならんや。
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