斉家論 / 下
答、此御歌は、人々天地に受たる心を直に用るときは、卽神なることをしらせ玉ふ所也、汝は父が惡事を證す惡人を、反て正直者と思ひ、御神託と同じやうに見なすは理に闇きゆへ是非わかれず、彼が不善を知らんと思はゞ、實情を知るべし、實情の發る處をいはゞ、こゝに人あらんに、その父、人を殺さば、はつと驚くは子の常なり、又父が羊を攘しと聞ときも、はつと驚く情發るは、鏡に物の移り、形に影のそふがごとく、間に髮を入ず、此所にて豈直不直を論ぜんや、これ惻隱の情にて實情なり、常人は勝手にひかれ思慮おほく、其意に思ふは、此事人が知るべきか、定て知るべし、隱し課ることはなるまじ、迚も隱されぬことならば、人にいはれぬ前に、
新字:答、此御歌は、人々天地に受たる心を直に用るときは、即神なることをしらせ玉ふ所也、汝は父が悪事を証す悪人を、反て正直者と思ひ、御神託と同じやうに見なすは理に闇きゆへ是非わかれず、彼が不善を知らんと思はゞ、実情を知るべし、実情の発る処をいはゞ、こゝに人あらんに、その父、人を殺さば、はつと驚くは子の常なり、又父が羊を攘しと聞ときも、はつと驚く情発るは、鏡に物の移り、形に影のそふがごとく、間に髪を入ず、此所にて豈直不直を論ぜんや、これ惻隠の情にて実情なり、常人は勝手にひかれ思慮おほく、其意に思ふは、此事人が知るべきか、定て知るべし、隠し課ることはなるまじ、迚も隠されぬことならば、人にいはれぬ前に、
書き下し
答ふ、此の御歌は、人々天地に受けたる心を直に用ゐるときは、即ち神なることをしらせ玉ふ所なり。汝は父が悪事を証す悪人を、反つて正直者と思ひ、御神託と同じやうに見なすは理に闇きゆへ是非わかれず。彼が不善を知らんと思はゞ、実情を知るべし。実情の発る処をいはゞ、こゝに人あらんに、その父、人を殺さば、はつと驚くは子の常なり。又父が羊を攘みしと聞くときも、はつと驚く情発るは、鏡に物の移り、形に影のそふがごとく、間に髪を入れず。此の所にて豈直不直を論ぜんや。これ惻隠の情にて実情なり。常人は勝手にひかれ思慮おほく、其の意に思ふは、此の事人が知るべきか、定めて知るべし、隠し課することはなるまじ、迚も隠されぬことならば、人にいはれぬ前に、
現代語訳
梅岩は答えました。「この御歌は、人々が天地から受けた心をまっすぐ用いるとき、それがそのまま神であることを知らせてくださったものです。あなたは父の悪事を証言した悪人を、かえって正直者と思い、御神託と同じように見なしているのは、理に暗いので是非が分からないのです。その者の不善を知ろうと思うなら、実情を知らなければなりません。実情の起こるところを言えば、ここに人がいて、その父が人を殺したなら、はっと驚くのが子の常です。また父が羊を盗んだと聞いたときも、はっと驚く情が起こるのは、鏡に物が映り、形に影が添うように、間髪を入れません。ここでどうして正直か不正直かを論じるでしょう。これが惻隠の情で、実情です。普通の人は自分の都合に引かれて思慮が多く、心の中でこう思います。このことは人に知られるだろうか、きっと知られるだろう、隠しおおせることはできまい、どうせ隠せないなら、人に言われる前に、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『斉家論』下我よりいふが、罪もかろくて然るべしと思ひ、父の悪事をあらはすは、己を思ふ所より、父を捨つるに至る不孝ものにて、大悪人なり。汝博学なれども理に闇きゆへ、思慮と実情分けがたく、固より論語が解けぬ所より、神道儒道に高下を見なすは笑止なることなり。既に孟子に云ふ、上世嘗て其の親を葬らざることあり。其の親死する時、挙げてこれを壑に委つ。他の日これを過ぐる時、狐狸これを喰ひ、蠅蚋姑これを喰ふ。子が額より泚流れ、睨みて視ず。それ泚すること、人の為に泚するにあらず、中心より面目に達すと。是即ち惻隠の心なり。予は此の惻隠の心発る所を、直に行ふを正直といふ。舜の大聖人といへども、瞽瞍人を殺さば、善悪をゑらまず、負ひてのがれて隠れ玉ふべしと、
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論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
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『墨子』尚同下子墨子言いて曰く、「知者の事は、必ず國家百姓の治まる所以の者を計りて之を為し、必ず國家百姓の亂るる所以の者を計りて之を辟く。然らば國家百姓の治まる所以の者を計るに何ぞや。上の政を為すや、下の情を得れば則ち治まり、下の情を得ざれば則ち亂る。何を以て其の然るを知るや。上の政を為すや、下の情を得れば、則ち是れ民の善非に明らかなり。茍くも民の善非に明らかなるが若くんば、則ち善人を得て之を賞し、暴人を得て之を罰するなり。善人賞せられて暴人罰せらるれば、則ち國必ず治まる。上の政を為すや、下の情を得ざれば、則ち是れ民の善非に明らかならず。若し茍くも民の善非に明らかならずんば、則ち是れ善人を得て之を賞せず、暴人を得て之を罰せず。善人賞せられずして暴人罰せられず、政を為すこと此くの若くんば、國衆必ず亂る。故に賞は下の情を得ざれば、而ち察せざる可からざる者なり」と。
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『都鄙問答』卷之一・孝ノ道ヲ問ノ段曰く、我が問ふ所は、親に事ふるのことなり。其の急なることを差し置き、只一通りに心を知れとは如何なることぞ。答ふ、汝は、損ある事には従ひがたしと云へり。従はざれば逆ふなり。親に逆ふより、大なる不孝あらんや。然るに費え有ることに従ふは、義に合はざると思へり。これ心の暗きより、是非分かたざる所なり。我が云ふ所は、悉く親に事ふる道なれども、汝聞き得ることあたはず。是れ心を知らざるゆへなり。因りて心を知る事を急務とす。
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『韓非子』安危第二十五明主の道は法に忠なり、其の法は心に忠なり。故に之に臨みては法り、之を去りては思わる。
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牧民忠告・聽訟人は独り處(お)ること能(あた)わず、必ず衆に資(と)りて以て其の生を遂ぐ。衆以て相資(あいと)る、此れ訟(しょう)の従(よ)りて起こる所なり。故に聖人《易》を作るに、「訟」を以て「師」に継(つ)ぐ、其の警(いまし)めを示すこと固(まこと)に深し。夫れ善く訟を聴く者は、必ず先ず其の情を察す。其の情を察せんと欲すれば、必ず先ず其の辞を審(つまび)らかにす。其の情直(なお)ければ、其の辞直(なお)し。其の情曲(まが)れば、其の辞曲る。政(たと)い其の辞を強(し)いて直(なお)くせしむとも、其の情は則ち必ず自ら相(あい)矛盾し、従(したが)ってこれを詰(なじ)れば、誠偽(せいぎ)見(あら)わる。《周礼》五声を以て獄訟(ごくしょう)を聴くも、民情を求むること固(もと)より此れに外(ほか)ならず。然れども聖人謂う、「訟を聴くは、吾(われ)猶(な)お人のごときなり。必ずや訟無からしめんか」と。蓋し訟を聴く者は已然(いぜん)に折衷す、苟(いやしく)も其の心を公にすれば、人皆能くす可きなり。訟無き者は過ちを未然に救う、徳を以て民を化するに非ざれば、何に由りて此れに及ばんや。嗚呼(ああ)、凡そ民を牧する者、其れ能く訟を聴くを恃(たの)みて徳と為す勿(な)かれ。