弁名 / 天命帝鬼神
鬼神之說。所以紛然弗已者。有鬼無鬼之辨已。夫鬼神者聖人所立焉。豈容疑乎。故謂無鬼者。不信聖人者也。其所以不信之故。則以不可見也。以不可見而疑之。豈翅鬼乎。天與命皆然。故學者以信聖人爲本。苟不信聖人。而用其私智則無所不至已。
新字:鬼神之説。所以紛然弗已者。有鬼無鬼之弁已。夫鬼神者聖人所立焉。豈容疑乎。故謂無鬼者。不信聖人者也。其所以不信之故。則以不可見也。以不可見而疑之。豈翅鬼乎。天与命皆然。故学者以信聖人為本。苟不信聖人。而用其私智則無所不至已。
書き下し
鬼神の説の紛然として已まざる所以の者は、有鬼無鬼の辨のみ。夫れ鬼神は聖人の立つる所なり。豈に疑ひを容れんや。故に鬼無しと謂ふ者は、聖人を信ぜざる者なり。其の信ぜざる所以の故は、則ち見るべからざるを以てなり。見るべからざるを以て之を疑はば、豈に翅に鬼のみならんや。天と命と皆然り。故に学者は聖人を信ずるを以て本と為す。苟も聖人を信ぜずして、其の私智を用ふれば、則ち至らざる所無きのみ。
現代語訳
鬼神についての議論が紛糾してやまないのは、鬼神があるかないかの論争のためである。そもそも鬼神は聖人が立てたものである。どうして疑いを差し挟めようか。だから鬼神はないと言う者は、聖人を信じない者である。信じない理由は、見ることができないからである。見えないから疑うというなら、どうして鬼神だけにとどまろうか。天も命もみなそうである。だから学ぶ者は聖人を信じることを根本とする。もし聖人を信じずに自分の小賢しい知恵を用いれば、どこまでも行き着いてしまう。
解説
鬼神の有無を論じ続けることそのものを、徂徠は問題にする。鬼神は聖人が立てたものであり、見えないから無いと言うなら、天も命も同じく疑わしくなる。学ぶ者は聖人を信じることを本とし、私智で裁いてはならないという。近代の目には信仰の強要に見えるかもしれないが、徂徠の要点は、目に見えるものだけを確かとする態度の限界にある。組織でも、数字に表れない信頼や文化、先人の知恵を「根拠がない」と切り捨てると、自分の狭い知恵の範囲でしか判断できなくなるのである。
この章句が説くこと
鬼神聖人信私智天命学問
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