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弁名 / 元亨利貞

元亨利貞者。卦德之名也。諸儒以爲天有斯四德者謬矣。如乾爲天。亦後人取其象云爾。其實乾自乾。天自天。豈可混乎。如曰易有天道焉。有人道焉。有地道焉。亦後人玩其象則見易有三才之道耳。豈必天道哉。大氐易之爲書。主占筮。故其設辭不與它書同讀之之道。亦不與它書同。曰觀。曰玩。曰不可爲典要可以見已。故乾元亨利貞當以易觀之。不必引天道及聖人之道解之。至其用之。則以爲天道亦可矣。以爲地道亦可矣。以爲聖人之道亦可矣。以爲君子之道亦可矣。以爲庶人之道亦可矣。故曰不可爲典要也。

新字:元亨利貞者。卦徳之名也。諸儒以為天有斯四徳者謬矣。如乾為天。亦後人取其象云爾。其実乾自乾。天自天。豈可混乎。如曰易有天道焉。有人道焉。有地道焉。亦後人玩其象則見易有三才之道耳。豈必天道哉。大氐易之為書。主占筮。故其設辞不与它書同読之之道。亦不与它書同。曰観。曰玩。曰不可為典要可以見已。故乾元亨利貞当以易観之。不必引天道及聖人之道解之。至其用之。則以為天道亦可矣。以為地道亦可矣。以為聖人之道亦可矣。以為君子之道亦可矣。以為庶人之道亦可矣。故曰不可為典要也。

書き下し

元亨利貞とは、卦徳の名なり。諸儒以て天に斯の四徳有りと為す者は謬れり。乾を天と為すが如きも、亦た後人其の象を取ると云ふのみ。其の実は乾は自ら乾、天は自ら天。豈に混ずべけんや。「易に天道有り、人道有り、地道有り」と曰ふが如きも、亦た後人其の象を玩べば、則ち易に三才の道有るを見るのみ。豈に必ずしも天道ならんや。大抵易の書為る、占筮を主とす。故に其の辞を設くること他書と同じからず、之を読むの道も、亦た他書と同じからず。「観る」と曰ひ、「玩ぶ」と曰ひ、「典要と為すべからず」と曰ふ、以て見るべきのみ。故に乾の元亨利貞は当に易を以て之を観るべし。必ずしも天道及び聖人の道を引きて之を解せず。其の之を用ふるに至りては、則ち以て天道と為すも亦た可なり。以て地道と為すも亦た可なり。以て聖人の道と為すも亦た可なり。以て君子の道と為すも亦た可なり。以て庶人の道と為すも亦た可なり。故に「典要と為すべからず」と曰ふなり。

現代語訳

元亨利貞とは、卦の徳の名前である。儒者たちが、天にこの四つの徳があると考えたのは誤りである。乾を天とするのも、後世の人がその象を取って言ったにすぎず、実際には乾は乾、天は天であって、混同してよいものではない。「易には天道があり、人道があり、地道がある」というのも、後の人がその象を味わってみると、易に天・地・人の三才の道が見えるということにすぎない。必ずしも天道だというわけではない。そもそも易という書物は占筮を主とする。だから言葉の置き方が他の書物と違い、読み方もまた他の書物と違う。「観る」といい、「玩ぶ」といい、「定まった規範としてはならない」というのを見ればわかる。だから乾の元亨利貞は易の読み方で観るべきで、天道や聖人の道を持ち出して解釈する必要はない。それを用いる段になれば、天道としてもよく、地道としてもよく、聖人の道としても、君子の道としても、庶民の道としてもよい。だから「定まった規範としてはならない」というのである。

解説

卷下の冒頭で徂徠は、元亨利貞を天そのものの四徳とする朱子学の解釈を退け、これは易の卦の徳の名にすぎないと定める。易は占いの書であり、言葉は固定した定義ではなく、場面に応じて天道にも君子の道にも当てはめて「観る」「玩ぶ」ものだという。経書をすべて同じ読み方で読まず、書の性格ごとに読み方を変えるのが古文辞学の要である。現代でも、マニュアルと事例集、規程と方針書では読み方が違う。文書の性格を見ずに一律に条文として読むと、かえって本来の意味を取り違えることになるのである。

この章句が説くこと

易元亨利貞占筮天道読み方古文辞

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