弁名 / 恭敬莊愼獨
恭者。德之名也。謂不自高也。倨之反也。宋儒乃有恭主容敬主心之說者。非矣。凡見於貌者本於心。未有心無恭敬而能貌恭敬者矣。故恭敬皆在心。皆見於貌。恭敬之分。恭主己。敬必有所敬。爲異耳。故敬曰敬之。恭不曰恭之。堯之允恭。舜之恭己。皆謂不自高。不自聖。不敢輕視人也。如堯知鯀之方命圮族。四岳曰試可乃己。則用之。欲作禮樂。則登庸舜。是恭也。如舜之好問。好察邇言。是恭也。如孔子稱子產曰。其行己也恭。其事上也敬。恭敬之分。可以見已。
新字:恭者。徳之名也。謂不自高也。倨之反也。宋儒乃有恭主容敬主心之説者。非矣。凡見於貌者本於心。未有心無恭敬而能貌恭敬者矣。故恭敬皆在心。皆見於貌。恭敬之分。恭主己。敬必有所敬。為異耳。故敬曰敬之。恭不曰恭之。堯之允恭。舜之恭己。皆謂不自高。不自聖。不敢軽視人也。如堯知鯀之方命圮族。四岳曰試可乃己。則用之。欲作礼楽。則登庸舜。是恭也。如舜之好問。好察邇言。是恭也。如孔子称子産曰。其行己也恭。其事上也敬。恭敬之分。可以見已。
書き下し
恭は徳の名なり。自ら高しとせざるを謂ふなり。倨の反なり。宋儒乃ち「恭は容を主とし、敬は心を主とす」の説有る者は、非なり。凡そ貌に見はるる者は心に本づく。未だ心に恭敬無くして能く貌の恭敬なる者有らず。故に恭敬は皆心に在り、皆貌に見はる。恭敬の分は、恭は己を主とし、敬は必ず敬する所有り、異なりと為すのみ。故に敬は「之を敬す」と曰ひ、恭は「之を恭す」と曰はず。堯の「允に恭」、舜の「己を恭しくす」は、皆自ら高しとせず、自ら聖とせず、敢へて人を軽視せざるを謂ふなり。堯の鯀の命に方き族を圮るを知るも、四岳「試みて可なれば乃ち已めん」と曰へば、則ち之を用ひ、礼楽を作らんと欲すれば、則ち舜を登庸するが如き、是れ恭なり。舜の問ふことを好み、好んで邇言を察するが如き、是れ恭なり。孔子の子産を称して「其の己を行ふや恭、其の上に事ふるや敬」と曰ふが如き、恭敬の分、以て見るべきのみ。
現代語訳
恭とは徳の名で、自分を高しとしないことをいう。おごり高ぶる「倨」の反対である。宋儒に「恭は外見を主とし、敬は心を主とする」という説があるが、誤りである。およそ外見に現れるものは心に根ざしている。心に恭敬がないのに外見だけ恭敬であるということはありえない。だから恭も敬もどちらも心にあり、どちらも外見に現れる。恭と敬の違いは、恭は自分のあり方を主とし、敬は必ず敬う対象がある、という点だけである。だから敬は「これを敬う」と言うが、恭は「これを恭する」とは言わない。堯の「まことに恭しい」、舜の「己を恭しくする」は、どちらも自分を高しとせず、自分を聖人とせず、人を軽んじないことをいう。堯は鯀が命令に背き一族を損なう者だと知っていたが、四岳が「試してみて、できるかどうか見ればよい」と言うと彼を用い、礼楽を作ろうとすると舜を登用した。これが恭である。舜が人に問うことを好み、身近な言葉をよく察したのも恭である。孔子が子産を「身の処し方は恭しく、上に仕えるには敬う」と称えたところに、恭と敬の違いが見てとれる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』恭敬莊愼獨諸書に又た恭敬を連ね言ふ者有り。亦た其の義相関はる故なり。先王の道は天を敬するを本と為す。故に敢へて自ら高しとせず。是れ恭敬の連ね言はるる所以の故なり。蓋し堯舜の敢へて其の下を軽視せざる所以の者は、天意の知るべからざるが為の故なり。夫れ或いは其の衷を誘はば、則ち鯀・驩兜も、何ぞ必ずしも昔日の鯀・驩兜ならんや。芻蕘の言も、豈に必ずしも我が下に出でんや。孔子の軽々しく天下を棄てざるも、亦た天意の知るべからざればなり。故に聖人の恭は、天を敬するの至りなり。荘は、専ら容を主とし、下に臨むを以て之を言ふ。上天照臨して、日月星辰森如たり。人の上たる者之に法る、是れ荘なり。
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国語・魯語下斉の閭丘(りょきゅう)来たりて盟う。子服景伯(しふくけいはく)、宰人を戒めて曰く、「陥りて恭に入れ」と。閔馬父(びんばほ)笑う。景伯之を問う。対えて曰く、「吾子の大なるを笑うなり。昔、正考父(せいこうほ)、商の名頌十二篇を周の太師に校し、那(だ)を以て首と為す。其の輯(しゅう)の乱に曰く、『古より在昔、先民作(な)す有り。温恭朝夕、事を執ること恪(かく)有り』と。先聖王の恭を伝うるも、猶お敢えて専らにせず。称して『古より』と曰い、古を『在昔』と曰い、昔を『先民』と曰う。今、吾子の吏人を戒めて『陥りて恭に入れ』と曰うは、其の満つることの甚だしきなり。周の恭王は能く昭・穆の闕(けつ)を庇いて『恭』と為り、楚の恭王は能く其の過ちを知りて『恭』と為る。今、吾子の官僚に教えて『陥りて後に恭せよ』と曰う。道将に何をか為さん」と。
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言志四録・言志後録 第百二十九条 経書を褻慢する勿れ竺氏の仏書を尊奉するは、太だ好し。我が学を為す者、却つて或は経書を褻慢す。愧づべく戒むべし。
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『弁名』恭敬莊愼獨孟子曰く、「難きを君に責むる、之を恭と謂ひ、善を陳べ邪を閉づる、之を敬と謂ふ」と。亦た其の君を軽視せざるを以て恭と為し、其の事を敬するを以て敬と為す。孟子に「交際は何の心ぞや」、曰く「恭なり」。「之を郤くるを不恭と為すは何ぞや」、曰く「尊者之を賜ふに、『其の之を取る所の者は義か不義か』と曰ひて而る後に之を受くるは、是を以て不恭と為す。故に郤けざるなり」と。亦た人を軽視せざるなり。孟子、柳下恵を不恭と称す。恵の意は天下に有道の君無しと謂ふ。故に「焉くに往くとして三たび黜けられざらん」と曰ふ。其の郷人を視ること、蜾蠃と螟蛉との如し。故に「爾焉んぞ能く我を浼さんや」と曰ふ。是れ皆人を軽視するの甚だしきなり。故に之を不恭と謂ふ。恭の字の義、以て見るべきのみ。
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尚書・太甲中先を奉じては孝を思い、下に接しては恭を思う。遠きを視るは惟れ明、徳を聴くは惟れ聡。
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『慎思録』巻之四恭にして和なるは、友に交はるの道なり。厳にして寛なるは、下に接するの道なり。蓋し恭にして厳なれば、則ち己を失はず。和にして寛なれば、則ち人を失はず。李白の詩に曰く、他人方寸の間、山海幾千里、と。言ふこころは、我他人の心曲を知ること能はず、他人も亦た焉んぞ能く我の心曲を知らん。然らば則ち彼我何ぞ能く心を傾けて相信ぜんや。故に孔子曰く、人の己を知らざるを患へず、人を知らざるを患ふ、と。
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