弁名 / 誠
檀弓曰。伯高之喪。孔氏之使者未至。冉子攝束帛乘馬而將之。孔子曰。異哉。徒使我不誠於伯高。是伯高既死。死者無知。故孔子惡不誠。又曰。喪三日而殯。凡附於身者。必誠必信。勿之有悔焉耳矣。三月而葬。凡附於棺者。必誠必信。勿之有悔焉耳矣。是言凡有發我中心所欲爲者。則爲之而無復顧慮。是誠也。信謂不疑也。凡心有所不安者。則不爲。是信也。皆待死者之道也。郊特牲曰。用犢。貴誠也。是祭天。與天子適諸侯。膳皆用犢。犢無知者也。天之德誠。故用之。尊天子。比於天。故亦用之。僅此類已。
新字:檀弓曰。伯高之喪。孔氏之使者未至。冉子摂束帛乗馬而将之。孔子曰。異哉。徒使我不誠於伯高。是伯高既死。死者無知。故孔子悪不誠。又曰。喪三日而殯。凡附於身者。必誠必信。勿之有悔焉耳矣。三月而葬。凡附於棺者。必誠必信。勿之有悔焉耳矣。是言凡有発我中心所欲為者。則為之而無復顧慮。是誠也。信謂不疑也。凡心有所不安者。則不為。是信也。皆待死者之道也。郊特牲曰。用犢。貴誠也。是祭天。与天子適諸侯。膳皆用犢。犢無知者也。天之徳誠。故用之。尊天子。比於天。故亦用之。僅此類已。
書き下し
檀弓に曰く、「伯高の喪に、孔氏の使者未だ至らず。冉子、束帛乗馬を摂りて之を将ふ。孔子曰く、異なるかな、徒らに我をして伯高に誠ならざらしむ」と。是れ伯高既に死す、死者は知無し、故に孔子不誠を悪むなり。又た曰く、「喪三日にして殯す。凡そ身に附くる者は、必ず誠に必ず信にして、之れ悔い有ること勿きのみ。三月にして葬る。凡そ棺に附くる者は、必ず誠に必ず信にして、之れ悔い有ること勿きのみ」と。是れ言ふこころは、凡そ我が中心より発して為さんと欲する所の者有れば、則ち之を為して復た顧慮すること無し、是れ誠なり。信は疑はざるを謂ふなり。凡そ心に安からざる所有る者は、則ち為さず、是れ信なり。皆死者を待つの道なり。郊特牲に曰く、「犢を用ふるは、誠を貴ぶなり」と。是れ天を祭ると、天子の諸侯に適くと、膳に皆犢を用ふ。犢は知無き者なり。天の徳は誠なり、故に之を用ふ。天子を尊びて天に比す、故に亦た之を用ふ。僅かに此の類のみ。
現代語訳
礼記の檀弓に「伯高の葬儀に、孔子の家の使者がまだ着かないうちに、冉有が(孔子の名で)絹の束と四頭の馬を整えて贈った。孔子は『おかしなことだ。いたずらに私を伯高に対して誠でない者にしてしまった』と言った」とある。伯高はすでに亡く、死者は何も知らない。だからこそ孔子は誠でないことを嫌ったのである。また「死後三日でかりもがりをする。身に添えるものは、必ず誠に、必ず信にして、悔いの残らないようにする。三か月で葬る。棺に添えるものは、必ず誠に、必ず信にして、悔いの残らないようにする」ともある。これは、心の奥から発してしたいと思うことがあれば、それをして二度とためらわない、これが誠だということである。信とは疑わないことである。心に安らかでないところがあればしない、これが信である。どちらも死者に対する道である。郊特牲には「子牛を用いるのは誠を尊ぶからである」とある。天を祭るときと、天子が諸侯のもとへ行くときの膳には、みな子牛を用いる。子牛は何も知らないものである。天の徳は誠であるから子牛を用いる。天子を尊んで天になぞらえるから、やはり子牛を用いる。古い用例はわずかにこの類だけである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士道』第七章 至誠信實・武士の一言虚言、遁辞は共に之を賤めて怯懦なりとせり。武士は社会に高位を占むるよりして、従つて誠実を標榜すること、商賈農民の輩に優りて高大なるを要すとしたり。武士の一言とは――独逸語にてアイン・リッテルヴォルト(Ein Ritterwort)と云ふと、其義を一にす――即ち其言語の信実を確証するものにして、武士は一諾を重んじて二言無く、武士の一言は千鈞よりも重し。されば、人と約するに必ずしも文書を要せず、又た敢て或は違ふことあらず。若し夫れ証文を以て約するが如きは、頗る武士の威厳を毀損するものとせり。世には武士たるものが、二言の罪を償ふに、死を以てしたる、多くの悲惨なる物語すら、之を伝ふるにあらずや。誠を標置すること斯の如く高く、而して基督教徒の(概)ね、『爾曹盟ふ勿れ』との教主の簡明なる戒を破り、毫も『スウェア』(誓言)するを憚らざるとは大に異り、真個の武士は誓詞起請を以て名誉を毀損するものなりとして之を賤めたり。
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『五常訓』巻之五・信是皆まことの道にあらず。忠孝にかぎらず、万事皆かくの如し。中庸に、不誠無物といへり。物なしとは、偽りて実なきなり。親につかへ、君につかふるに、誠なくして、右にいへる如くなれば、忠孝にあらず。是物なきなり。万の事、皆誠なければ物なし。凡名と利とを求めてする事は、たとひ天下に聞ゆるほどの善なりとも、其心真実ならざれば私とす。善にあらず。是物なきなり。四徳に誠なければ、仁義礼智にあらず、いつはりなり。是物なきなり。人の、天より生れつきたる性は、唯仁義礼智の四徳なり。此四徳にて、人道行はる。此故に、孟子は、ただ仁義礼智を説きて、信を説き給はず。程子曰く、四端に信を言はざるは、既に誠心有りて四端と為れば、則ち信其の中に在ればなり。これを以て、仁義礼智の外に、信なきことを知るべし。
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『初学訓』巻之一一天道は、元亨利貞の四徳なり。元ははじまるなり、春の徳なり。亨はとほるなり、夏の徳なり。利はとぐるなり、秋の徳なり。貞は正しきなり、冬の徳なり。又春夏秋冬の理なり。此道、古今にかはらず。春はあたたかに、夏はあつく、秋すずしく、冬さむきも、春は草木生じ、夏はしげり、秋はをさまりみのり、冬はひそまりかくるるも、古今年毎に、常にしてかはらず。皆是、天道の誠なり。誠なければ常なし。人の心に信あるは、天道に誠あるが如し。信ありて、仁義礼智の徳、実にして行はる。
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『五常訓』巻之一・総論一天の道、万古よりこのかた、常に行はれて止まず。春夏秋冬の序、日月のめぐり、寒暑温涼のおしうつる、皆其時たがはず。万物の生ずる、年々に、各其形色をあらためず。桃は紅に、李は白くして、万世までもかはらず。是即天道の誠なり。人の性に仁義礼智の四徳ありて、其中におのづから信あるは、天道の元亨利貞の内に誠あるが如し。天地の運行、人物の性、万世にいたりてかはらず。是即天道の誠なり。
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『五常訓』巻之五・信一信は説文に曰く、誠なり、人に从ひ言に从ふ、会意。徐曰く、文に於て人の言を信と為す、言ひて信ならざれば人為るに非ざるなり。信の字、人偏に言の字を書くは、六書においては、会意に属す。偏旁の意を以て作りし字なり。いふ意は、人の言に誠あらざるは、人にあらず。故に人の言は、必信あるべしと云ふ意なり。五常においては、心にまことあるを云ふ。口に偽をいはざるも、其内にあり。仁義礼智の、いつはりなき真実なるを、信と云ふ。信なければ、仁義礼智にあらず。仁義礼智四徳の外に、又信あるにあらず。親によくつかふるは孝なれど、名聞のためにつとめ、又親の寵愛をねがひて務むるは、孝にあらず。君によく仕ふるは忠なれど、君の寵をねがひ、官禄をむさぼりて、奉公をつとむるは、忠にあらず。
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『五常訓』巻之五・信信は、天道にていはば誠なり。真実無妄を誠と云ふ。天道に春夏秋冬の四時あり。其内に土用あり。四時に元亨利貞の四徳あり。四徳の実にして、万世までたがはざるは誠なり。人に仁義礼智ありて、其内に信ある亦かくの如し。元亨利貞、四時のめぐりの序ちがはざるは、即誠なり。天道の、春生じ、夏長じ、秋をさめ、冬かくすこと、年々同じく、日月のめぐり、四時の温熱涼寒、人物のかたちも性も、万古より今に至りてかはらず。桃花は年々紅に、李花は年々白きも、皆是天道の誠たがはざるなり。天道にありては誠と云ひ、人に生れつきては信と云ふ。天にあり、人にある、理は一なり。
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