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弁名 / 恕

仁齋先生曰。有寬宥之意。又有忖度之意。言每忖度人之心。而不以刻薄待之。乃引書札中恕宥恕察等文。然其義皆盡於己所不欲勿施於人八字之中矣。且所謂寬宥不刻薄者。先王之道爲安民設之。而長之成之輔之養之之意。無往不在。則不唯恕字爲然已。乃懲於宋儒刻薄之弊。故有是說耳。又不知論語多注入正文者。故於曰其恕乎。曰己所不欲勿施於人。而疑其意重複也。至於引子貢所謂我亦欲無加諸人。則亦自不知踵宋儒之誤也。大氏忠信僅足爲學問之基。而忠恕乃爲依於仁之方。故古人言忠恕者。大於忠信。學者思諸。

新字:仁斎先生曰。有寛宥之意。又有忖度之意。言毎忖度人之心。而不以刻薄待之。乃引書札中恕宥恕察等文。然其義皆尽於己所不欲勿施於人八字之中矣。且所謂寛宥不刻薄者。先王之道為安民設之。而長之成之輔之養之之意。無往不在。則不唯恕字為然已。乃懲於宋儒刻薄之弊。故有是説耳。又不知論語多注入正文者。故於曰其恕乎。曰己所不欲勿施於人。而疑其意重複也。至於引子貢所謂我亦欲無加諸人。則亦自不知踵宋儒之誤也。大氏忠信僅足為学問之基。而忠恕乃為依於仁之方。故古人言忠恕者。大於忠信。学者思諸。

書き下し

仁斎先生曰く、「寛宥の意有り、又た忖度の意有り。言ふこころは毎に人の心を忖度して、刻薄を以て之を待たず」と。乃ち書札中の「恕宥」「恕察」等の文を引く。然れども其の義は皆「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」の八字の中に尽く。且つ所謂寛宥にして刻薄ならざる者は、先王の道は民を安んずる為に之を設けて、之を長じ之を成し之を輔け之を養ふの意、往くとして在らざるは無し。則ち唯だ恕の字のみ然りと為さず。乃ち宋儒刻薄の弊に懲りる、故に是の説有るのみ。又た論語に多く注の正文に入る者あるを知らず。故に「其れ恕か」と曰ひ、「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」と曰ふに於いて、其の意の重複するを疑ふなり。子貢の所謂「我も亦た諸を人に加ふること無からんと欲す」を引くに至りては、則ち亦た自ら宋儒の誤りを踵ぐを知らざるなり。大氐忠信は僅かに学問の基と為すに足り、而して忠恕は乃ち仁に依るの方と為す。故に古人の忠恕を言ふ者は、忠信より大なり。学者諸を思へ。

現代語訳

仁斎先生は「恕には寛く許す意味があり、また推し量る意味もある。いつも人の心を推し量って、冷たく厳しく扱わないことだ」と言い、手紙の中の「恕宥(お許しください)」「恕察(お察しください)」などの文を引いた。しかしその意味はすべて「自分が望まないことは人にしない」の八字の中に尽きている。しかも寛く許して冷酷でないということなら、先王の道は民を安んじるために設けられ、民を伸ばし、成し遂げさせ、助け、養うという意味がどこにでも行き渡っているのだから、恕の字だけがそうなのではない。仁斎は宋儒の冷酷な弊害に懲りたからこう説いただけである。また論語には注が本文に紛れ込んだ箇所が多いことを知らないので、「それは恕だろうか」と「自分が望まないことは人にしない」とが重複していると疑った。子貢の「私も人にそれを加えないようにしたい」を引くに至っては、自分でも気づかずに宋儒の誤りを踏襲している。おおよそ忠信はかろうじて学問の土台になるにすぎず、忠恕は仁に拠るための手立てである。だから古人が忠恕を言うときは、忠信より大きなことを言っている。学ぶ者はよく考えよ。

解説

仁斎は恕に「寛く許す」「推し量る」の意味を加えたが、徂徠はそれも八字の中に尽きると言う。寛容さは恕だけの性質ではなく、民を長じ成し輔け養うという先王の道全体に行き渡っているからだ。仁斎の説は宋学の冷酷さへの反動にすぎないと見抜き、論語の本文に注が紛れ込んでいることにも気づくべきだと指摘する。最後に、忠信は学問の基、忠恕は仁へ向かう道筋と位置づけ直す。組織の価値観も、誠実さを土台に置きつつ、その上に人を育て支える構えを据えてはじめて完成するのである。

この章句が説くこと

恕忠恕忠信仁仁斎弁名

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