弁名 / 序
自生民以來。有物有名。名故有常人名焉者。是名於物之有形焉者已。至於物之亡形焉者。則常人之所不能睹者。而聖人立焉名焉。然後雖常人可見而識之也。謂之名敎。故名者敎之所存。君子愼焉。孔子曰。名不正則言不順。蓋一物紕繆。民有不得其所者焉。可不愼乎。
新字:自生民以来。有物有名。名故有常人名焉者。是名於物之有形焉者已。至於物之亡形焉者。則常人之所不能睹者。而聖人立焉名焉。然後雖常人可見而識之也。謂之名教。故名者教之所存。君子慎焉。孔子曰。名不正則言不順。蓋一物紕繆。民有不得其所者焉。可不慎乎。
書き下し
生民より以来、物有れば名有り。名は故より常人の名づくる者有り。是れ物の形有る者に名づくるのみ。物の形亡き者に至りては、則ち常人の睹ること能はざる所の者にして、聖人焉を立てて焉に名づく。然る後に常人と雖も見て之を識るべきなり。之を名教と謂ふ。故に名は教の存する所にして、君子焉を慎む。孔子曰く、「名正しからざれば則ち言順はず」と。蓋し一物紕繆すれば、民其の所を得ざる者有り。慎まざるべけんや。
現代語訳
人類が生まれて以来、物があれば名がある。名にはもともと普通の人がつけたものがあるが、それは形のある物に名をつけたにすぎない。形のない物になると、普通の人には見ることができないので、聖人がそれを打ち立てて名をつけた。そうしてはじめて、普通の人でも見て知ることができるようになった。これを「名教」(名による教え)という。だから名は教えが宿るところであり、君子はそれを慎重に扱う。孔子は「名が正しくなければ言葉が筋道立たない」と言った。一つの物の名が誤れば、民のなかに身の置き所を失う者が出る。慎まずにいられようか。
解説
辨名の序の冒頭で、徂徠は「名」とは何かを定める。形ある物は誰でも名づけられるが、道・徳・仁のような形のないものは、聖人が立てて名づけてはじめて人々に見えるようになる。だから名そのものが教えであり、一語の意味を取り違えれば民が拠り所を失う。『論語』子路篇の「名正しからざれば」を引くのは、この書全体が語の定義の正しさを問う書だからである。組織でも「品質」「顧客第一」のような形のない言葉の意味がぶれると、現場は何を拠り所にすればよいか迷う。言葉を定めることは、それ自体が人を導く仕事なのである。
この章句が説くこと
名教名聖人正名教育弁名
関連する章句
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『弁名』序厥れより以降、世は言を載せて以て移る。唐に韓愈有りて文は古今殊なり、宋に程朱有りて学は古今殊なり。之の数君子は、皆豪傑の資を稟け、一世に雄視し、慷慨自ら奮ひ、輒ち聖人の道を以て己が任と為す。然れども其の心を秉ること鋭く、能く其の世を論ずるに遑あらんや。迺ち意もて自ら諸を理に取りて、聖人の道是に在りと謂ふ。殊に知らず、今言は古言に非ず、今文は古文に非ざることを。吾其の中に居りて、是を以て諸を古に求む。迺ち能く其の名を得る者幾ど希なり。且つ理なる者は、適かざること莫き者なり。吾我が意を以て自ら之を取る、是れ安んぞ能く聖人の物と為す所の者を得んや。名と物と失はれて、能く聖人の道を得る者は、未だ之れ有らざるなり。故に程朱の名と為す所も、亦た其の自ら見る所のみ。七十子の徒の伝ふる所の孔子の道に非ざるなり。則ち亦た古先聖王の道に非ざるなり。故に聖人の道を求めんと欲する者は、必ず諸を六経に求めて、以て其の物を識り、諸を秦漢以前の書に求めて、以て其の名を識る。名と物と舛はずして後に聖人の道得て言ふべきのみ。故に辨名を作る。
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『弁名』聖夫れ聖人も亦た人のみ。人の徳は性を以て殊なり。聖人と雖も其の徳豈に同じからんや。而して均しく之を聖人と謂ふ者は、制作を以ての故なり。唯だ制作の迹のみ見るべし。其の見るべきに就きて以て之に命じ、而して敢へて其の徳を論ぜず。尊ぶことの至りなり。古の道爲り爾り。後儒は精を貴び粗を賤しむの見、内に主と為る。故に礼楽の之を道と謂ふを知らず。又聖人の称の制作に因りて之に命ずるを知らず。徒らに其の徳を以て之を論じて、徳の性を以て殊なるを知らざるなり。徳の殊なるは、以て其の聖を病ましむるに足らず。妄りに意ふ、聖人の徳は宜しく一なるべしと。而して其の殊なる有るを睹れば、則ち孔子は堯舜より優れりと曰ひ、湯武は聖人に非ずと曰ふ。豈に忌憚無きの甚しき者に非ずや。
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『弁名』仁仁なる者は、人に長とし民を安んずるの徳を謂ふなり。是れ聖人の大徳なり。天地の大徳を生と曰ふ。聖人之に則る。故に又た之を好生の徳と謂ふ。聖人なる者は古の天下に君たる者なり。故に君の徳は焉より尚きは莫し。是を以て伝に曰く、「人君と為りては仁に止まる」と。聖人なる者は得て学ぶべからず。後の君子の聖人の道を学びて以て其の徳を成す者は、仁を至りと為す。故に孔子曰く、「君子仁を去りて、悪くにか名を成さん」と。君子と命くる所以の者は、仁を以てなるを言ふ。故に孔門の教へは、必ず仁に依る。其の心聖人の仁と相離れざるを謂ふなり。故に仁なる者は、聖人の大徳にして、君子の徳と為す所以なり。
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『弁名』聖叚使孔子無からしめば、則ち先王の道亡ぶること久し。故に千歳の後、道は諸を先王に属せずして、諸を孔子に属す。邪説異教の徒と雖も、亦た孔子を聖人に非ずと謂ふ者有る莫し。則ち宰我・子貢・有若の言、果たして今日に徴あるのみ。夫れ孔子の徳は至れり。然れども宰我・子貢・有若・子思の言無からしめば、則ち吾未だ敢へて之を聖人と謂はざるなり。吾聖人に非ずして、聖人を知ること能はざるを以てなり。夫れ我吾が見る所を以て、其の聖人為るを定むるは、僭なり。僭なれば則ち吾豈に敢へてせんや。我姑く衆人の言を以て、其の聖人為るを定むるは、特操無き者なり。特操無ければ則ち吾豈に敢へてせんや。然りと雖も、古聖人の道は孔子に藉りて以て伝はる。孔子無からしめば、則ち道の亡ぶること久し。千歳の下、道終に諸を先王に属せずして、諸を孔子に属す。則ち我も亦た其の堯舜より賢れるを見るのみ。蓋し孔子の前に、孔子無く、孔子の後に、孔子無し。吾聖人に非ず、何を以て能く其の名を定めんや。故に且く諸を古の作者に比して、聖人を以て之に命くるのみ。
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荀子・正名篇凡そ邪説辟言の正道を離れて擅に作る者は、三惑に類せざるもの無し。故に明君は其の分を知りて之と辨ぜざるなり。夫れ民は一にするに道を以てし易くして、与に故を共にすべからず。故に明君は之に臨むに勢を以てし、之を道びくに道を以てし、之を申ぬるに命を以てし、之を章かにするに論を以てし、之を禁ずるに刑を以てす。故に其の民の道に化するや神の如し、辨埶悪くんぞ用いんや。今聖王没し、天下乱れ、姦言起こり、君子に之に臨むの埶無く、之を禁ずるの刑無し、故に辨説あるなり。実喩らず、然る後に命じ、命じて喩らず、然る後に期し、期して喩らず、然る後に説き、説きて喩らず、然る後に辨ず。故に期・命・辨・説なる者は、用の大文にして、王業の始めなり。名聞こえて実喩るは、名の用なり。累ねて文を成すは、名の麗なり。用と麗と倶に得る、之を名を知ると謂う。名なる者は、実を期し累ぬる所以なり。辞なる者は、異実の名を兼ねて以て一意を論ずるなり。辨説なる者は、実名を異にせずして以て動静の道を喩すなり。期命なる者は、辨説の用なり。辨説なる者は、心の道を象るなり。心なる者は、道の工宰なり。道なる者は、治の経理なり。心は道に合し、説は心に合し、辞は説に合す。名を正して期し、質請にして喩り、異を辨じて過たず、類を推して悖らず。聴けば則ち文に合し、辨ずれば則ち故を尽くす。正道を以て姦を辨ずるは、猶お縄を引きて曲直を持するがごとし。是の故に邪説も乱すこと能わず、百家も竄るる所無し。兼聴の明有りて、矜奮の容無く、兼覆の厚有りて、伐徳の色無し。説行わるれば則ち天下正しく、説行われざれば則ち道を白らかにして冥窮す。是れ聖人の辨説なり。詩に曰く、「顒顒卬卬たり、圭の如く璋の如し、令聞令望あり、豈弟たる君子は、四方の綱と為る」と。此れ之を謂うなり。
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『弁名』理氣人欲聖人の教は、詩書礼楽なり。習ひて之に熟し、黙して之を識れば、則ち聖人の礼義を立つる所以の理も、亦た得て之を見るべきのみ。然れども人の知は、至る有り、至らざる有り。安んぞ強ふべけんや。其の知至らざる者は、則ち孔子曰く、「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」と。是れ聖人と雖も亦た皆をして知らしむる能はざるなり。今必ず学者をして先づ其の理を知りて而る後に之を行はしめんと欲す。則ち亦た学者をして人々各々聖人の権を操らしめんと欲するなり。是れ安んぞ夫の聖人を用ひんや。故に究理の失は、必ず聖人を廃するに至るなり。
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