荀子 / 正名篇
凡邪說辟言之離正道而擅作者,無不類於三惑者矣。故明君知其分而不與辨也。夫民易一以道,而不可與共故。故明君臨之以勢,道之以道,申之以命,章之以論,禁之以刑。故其民之化道也如神,辨埶惡用矣哉!今聖王沒,天下亂,姦言起,君子無埶以臨之,無刑以禁之,故辨說也。實不喻,然後命,命不喻,然後期,期不喻,然後說,說不喻,然後辨。故期命辨說也者,用之大文也,而王業之始也。名聞而實喻,名之用也。累而成文,名之麗也。用麗俱得,謂之知名。名也者,所以期累實也。辭也者,兼異實之名以論一意也。辨說也者,不異實名以喻動靜之道也。期命也者,辨說之用也。辨說也者,心之象道也。心也者,道之工宰也。道也者,治之經理也。心合於道,說合於心,辭合於說。正名而期,質請而喻,辨異而不過,推類而不悖。聽則合文,辨則盡故。以正道而辨姦,猶引繩以持曲直。是故邪說不能亂,百家無所竄。有兼聽之明,而無矜奮之容;有兼覆之厚,而無伐德之色。說行則天下正,說不行則白道而冥窮。是聖人之辨說也。《詩》曰:「顒顒卬卬,如圭如璋,令聞令望,豈弟君子,四方為綱。」此之謂也。
新字:凡邪説辟言之離正道而擅作者,無不類於三惑者矣。故明君知其分而不与辨也。夫民易一以道,而不可与共故。故明君臨之以勢,道之以道,申之以命,章之以論,禁之以刑。故其民之化道也如神,辨埶悪用矣哉!今聖王没,天下乱,姦言起,君子無埶以臨之,無刑以禁之,故辨説也。実不喻,然後命,命不喻,然後期,期不喻,然後説,説不喻,然後辨。故期命辨説也者,用之大文也,而王業之始也。名聞而実喻,名之用也。累而成文,名之麗也。用麗俱得,謂之知名。名也者,所以期累実也。辞也者,兼異実之名以論一意也。辨説也者,不異実名以喻動静之道也。期命也者,辨説之用也。辨説也者,心之象道也。心也者,道之工宰也。道也者,治之経理也。心合於道,説合於心,辞合於説。正名而期,質請而喻,辨異而不過,推類而不悖。聴則合文,辨則尽故。以正道而辨姦,猶引繩以持曲直。是故邪説不能乱,百家無所竄。有兼聴之明,而無矜奮之容;有兼覆之厚,而無伐徳之色。説行則天下正,説不行則白道而冥窮。是聖人之辨説也。《詩》曰:「顒顒卬卬,如圭如璋,令聞令望,豈弟君子,四方為綱。」此之謂也。
書き下し
凡そ邪説辟言の正道を離れて擅に作る者は、三惑に類せざるもの無し。故に明君は其の分を知りて之と辨ぜざるなり。夫れ民は一にするに道を以てし易くして、与に故を共にすべからず。故に明君は之に臨むに勢を以てし、之を道びくに道を以てし、之を申ぬるに命を以てし、之を章かにするに論を以てし、之を禁ずるに刑を以てす。故に其の民の道に化するや神の如し、辨埶悪くんぞ用いんや。今聖王没し、天下乱れ、姦言起こり、君子に之に臨むの埶無く、之を禁ずるの刑無し、故に辨説あるなり。実喩らず、然る後に命じ、命じて喩らず、然る後に期し、期して喩らず、然る後に説き、説きて喩らず、然る後に辨ず。故に期・命・辨・説なる者は、用の大文にして、王業の始めなり。名聞こえて実喩るは、名の用なり。累ねて文を成すは、名の麗なり。用と麗と倶に得る、之を名を知ると謂う。名なる者は、実を期し累ぬる所以なり。辞なる者は、異実の名を兼ねて以て一意を論ずるなり。辨説なる者は、実名を異にせずして以て動静の道を喩すなり。期命なる者は、辨説の用なり。辨説なる者は、心の道を象るなり。心なる者は、道の工宰なり。道なる者は、治の経理なり。心は道に合し、説は心に合し、辞は説に合す。名を正して期し、質請にして喩り、異を辨じて過たず、類を推して悖らず。聴けば則ち文に合し、辨ずれば則ち故を尽くす。正道を以て姦を辨ずるは、猶お縄を引きて曲直を持するがごとし。是の故に邪説も乱すこと能わず、百家も竄るる所無し。兼聴の明有りて、矜奮の容無く、兼覆の厚有りて、伐徳の色無し。説行わるれば則ち天下正しく、説行われざれば則ち道を白らかにして冥窮す。是れ聖人の辨説なり。詩に曰く、「顒顒卬卬たり、圭の如く璋の如し、令聞令望あり、豈弟たる君子は、四方の綱と為る」と。此れ之を謂うなり。
現代語訳
おおよそ、正しい道を外れて勝手にこしらえられた邪説や偏った言論は、すべてこの三惑のいずれかに当てはまる。だから賢明な君主はその区別を知っていて、そういう者と議論を戦わせたりはしない。民は道によって一つにまとめるのは容易だが、その理屈を一つ一つ説き明かして共有させることはできない。だから賢明な君主は、権威をもって民に臨み、道をもって導き、命令によって示し、議論によって明らかにし、刑罰によって禁ずる。そうすれば民が道に感化されていくさまは神業のようであり、弁論の技術などわざわざ使う必要もない。ところが今は聖王が世を去り、天下は乱れ、よこしまな言説が起こり、君子には民に臨む権勢もなく、これを禁ずる刑罰もない。だからこそ弁論が必要になるのである。実体が伝わらなければ名をつけ、名づけても伝わらなければ取り決め、取り決めても伝わらなければ説明し、説明しても伝わらなければ論じ分ける。だから取り決め・名づけ・論じ分け・説明というものは、言葉の働きの大きなあらわれであり、王者の事業の始まりである。名が聞こえて実体が理解される、これが名の働きである。名を積み重ねて文章が成る、これが名の美しさである。働きと美しさの両方を得た者を、名を知る者という。名とは、実体を取り決めて指し示し、積み重ねるためのものである。辞(文)とは、異なる実体を指す名を組み合わせて一つの意味を述べるものである。弁説とは、名と実の対応を動かさずに、動と静の道理を説き明かすものである。取り決めと名づけとは、弁説の道具である。弁説とは、心が道を写し取ったものである。心とは、道を取り仕切る職人である。道とは、政治を治める筋道である。心が道に合致し、説くことが心に合致し、言葉が説くことに合致する。名を正して取り決め、内容が誠実で分かりやすく、違いを弁別して誤らず、類推を進めても道理に背かない。人の話を聞けば筋道に合い、論ずれば理由を尽くす。正しい道によってよこしまな説を論ずるのは、墨縄を張って曲がりと真っすぐを判定するようなものである。だから邪説も乱すことができず、諸子百家も逃げ隠れするところがない。あらゆる意見を聞き取る聡明さがありながら、得意げに誇る態度はなく、すべてを覆う包容の厚さがありながら、自分の徳を誇る顔つきもない。説が世に行われれば天下は正しくなり、行われなければ道を明らかにしたまま静かに世に隠れる。これが聖人の弁説である。詩経に「堂々として気高く、圭のように璋のように清らかで、よい評判とよい人望があり、和やかな君子は、四方の国の手本となる」とあるのは、このことをいうのである。