弁道 / 第二十三則
吾道一以貫之。豈特參賜乎。孔門諸子。皆聞而知之矣。宋儒推尊思孟。而又推本諸曾子。是其道統之說也。豈可據乎。或以一理言之。或以一心言之。或以誠言之。以一理言之者。天地人物皆爾。浮屠法身徧一切之見耳。以一心言之以誠言之者。知歸重於聖人之德。而不知歸重於先王之道焉。
新字:吾道一以貫之。豈特参賜乎。孔門諸子。皆聞而知之矣。宋儒推尊思孟。而又推本諸曽子。是其道統之説也。豈可拠乎。或以一理言之。或以一心言之。或以誠言之。以一理言之者。天地人物皆爾。浮屠法身遍一切之見耳。以一心言之以誠言之者。知帰重於聖人之徳。而不知帰重於先王之道焉。
書き下し
「吾が道は一以て之を貫く」。豈に特だ参賜のみならんや。孔門の諸子、皆聞きて之を知る。宋儒思孟を推尊し、而して又た諸を曾子に推し本づく。是れ其の道統の説なり。豈に拠るべけんや。或いは一理を以て之を言ひ、或いは一心を以て之を言ひ、或いは誠を以て之を言ふ。一理を以て之を言ふ者は、天地人物皆爾りとす。浮屠の法身一切に徧きの見のみ。一心を以て之を言ひ誠を以て之を言ふ者は、重きを聖人の徳に帰するを知りて、重きを先王の道に帰するを知らず。
現代語訳
「わが道は一つのことで貫かれている」。この言葉はどうして曾参(曾子)と端木賜(子貢)だけが聞いたものであろうか。孔子の門の弟子たちは、みな聞いて知っていた。宋儒は子思・孟子を推し尊び、さらにその源を曾子に置いた。これが彼らの道統の説である。どうして拠り所にできようか。(「一」を)ある者は一つの理で言い、ある者は一つの心で言い、ある者は誠で言う。一つの理で言う者は、天地も人も物もみなそうだとする。仏教の「法身があらゆるものに遍く行き渡る」という見方にすぎない。一つの心や誠で言う者は、重点を聖人の徳に置くことは知っていても、重点を先王の道に置くことを知らない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁道』第二十三則孔子明らかに吾が道と言ふ。吾が道とは先王の道なり。故に孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや」と。夫れ先王の道は天下を安んずるの道なり。天下を安んずるの道は仁に在り。故に一以て之を貫くと曰ふ。何を以て之を貫くと謂ふ。仁は一徳なり。然れども亦た大徳なり。故に能く衆徳を貫くべし。先王の道は多端なり。唯仁以て之を貫くべし。辟へば緡の銭を貫くが如く然り。故に貫くと曰ふ。若し一理なり一心なり誠なりとせば、則ち一のみ。何ぞ必ずしも貫くと曰はん。故に曾子曰く、「忠恕のみ」と。忠恕は仁の方たるが故なり。「のみ」と曰ふは、猶ほ「堯舜の道は孝弟のみ」のごとし。孝弟豈に堯舜の道を尽くさんや。則ち忠恕豈に道を尽くさんや。然れども是に由りて以て之を求むれば、庶はくは以て之を尽くすに足らん。古人の言語は皆此くの如し。後世の理学者流は、運用営為の意有る無く、急に其の理を目前に尽くさんと欲するなり。故に忠恕は理の虚象と為りて、天の忠恕、聖人の忠恕、学者の忠恕、種種の説有り。豈に曾子の時の語意ならんや。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曽子曰く、忠恕のみと説かへ玉へども、其心を覚らず。既子貢にも、一貫と告玉へども、子貢いまだ達せざるゆへ、対なきなり。曽子は道統を得玉ふゆへに、忠恕を以て、至誠一貫の理を説玉ふ。得たる者は自由にして、一貫を忠恕と説ども合へり。合と合ざるとは、得と得ざるとにあり。汝忠恕と説けども、性善を知らざれば、曽子の忠恕と違ること決せり。只忠恕のことゝ押つけ置とも、彼是済ぬこと多かるべし。師たる者は、此理を説べし。汝は性理に昧ゆへ、聞へざると見へたり。
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