晏子春秋 / 外篇下・仲尼相魯,景公患之,晏子對以勿憂
仲尼相魯,景公患之,謂晏子白,「鄰國有聖人,敵國之憂也。今孔子相魯,若何?」晏子對曰:「君其勿憂。彼魯君,弱主也;孔子,聖相也。君不如陰重孔子,設以相齊。孔子強諫而不聽,必驕魯而有齊,君勿納也。夫絕于魯,無主于齊,孔子困矣。」居期年,孔子去魯之齊,景公不納,故困于陳蔡之間。
新字:仲尼相魯,景公患之,謂晏子白,「鄰国有聖人,敵国之憂也。今孔子相魯,若何?」晏子対曰:「君其勿憂。彼魯君,弱主也;孔子,聖相也。君不如陰重孔子,設以相斉。孔子強諫而不聴,必驕魯而有斉,君勿納也。夫絶于魯,無主于斉,孔子困矣。」居期年,孔子去魯之斉,景公不納,故困于陳蔡之間。
書き下し
仲尼魯に相たり、景公之を患え、晏子に謂いて白す、「鄰国に聖人有るは、敵国の憂いなり。今孔子魯に相たり、若何」と。晏子対えて曰く、「君其れ憂うる勿かれ。彼の魯君は弱主なり、孔子は聖相なり。君は陰かに孔子を重んじ、設けて以て斉に相たらしむるに如かず。孔子強いて諫めて聴かれずんば、必ず魯に驕りて斉を有たん、君納るる勿かれ。夫れ魯に絶たれ、斉に主無ければ、孔子困しまん」と。居ること期年、孔子魯を去りて斉に之く、景公納れず、故に陳・蔡の間に困しむ。
現代語訳
仲尼(孔子)が魯の宰相になったので、景公はこれを心配し、晏子に言いました。「隣の国に聖人がいるのは、敵国にとっての憂いだ。今、孔子が魯の宰相になっている。どうしたものか」。晏子は答えました。「君はご心配なさいますな。あの魯の君は弱い主君で、孔子は聖人の宰相です。君はひそかに孔子を重んじて、斉の宰相にしようと持ちかけるのがよいでしょう。孔子が強く諫めても聞き入れられなければ、必ず魯に対して高ぶり、斉を手に入れようとするでしょう。そのときは君は受け入れてはなりません。魯に見限られ、斉にも主がいなければ、孔子は行き詰まります」。一年ほどたって、孔子は魯を去って斉に行きましたが、景公は受け入れず、そのため孔子は陳・蔡の間で困窮しました。
解説
この章句が説くこと
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