晏子春秋 / 雑上・齊饑晏子因路寢之役以振民/景公欲墮東門之堤晏子謂不可變古
景公之時饑,晏子請為民發粟,公不許。當為路寢之台,晏子令吏重其賃,遠其兆,徐其日而不趨,三年,台成而民振。故上說乎遊,民足乎食。君子曰:「政則晏子欲發粟與民而已,若使不可得,則依物而偶於政。」景公登東門防,民單服然後上,公曰:「此大傷牛馬蹄矣,夫何不下六尺哉?」晏子對曰:「昔者吾先君桓公,明君也,而管仲賢相也,夫以賢相佐明君,而東門防全也。古者不為,殆有為也。蚤歲,淄水至,入廣門,即下六尺耳,鄉者防下六尺,則無齊矣。夫古之重變古常,此之謂也。」
新字:景公之時饑,晏子請為民発粟,公不許。当為路寝之台,晏子令吏重其賃,遠其兆,徐其日而不趨,三年,台成而民振。故上説乎遊,民足乎食。君子曰:「政則晏子欲発粟与民而已,若使不可得,則依物而偶於政。」景公登東門防,民単服然後上,公曰:「此大傷牛馬蹄矣,夫何不下六尺哉?」晏子対曰:「昔者吾先君桓公,明君也,而管仲賢相也,夫以賢相佐明君,而東門防全也。古者不為,殆有為也。蚤歳,淄水至,入広門,即下六尺耳,郷者防下六尺,則無斉矣。夫古之重変古常,此之謂也。」
書き下し
景公の時饑う。晏子、民の為に粟を発かんことを請う。公許さず。当に路寝の台を為るべし。晏子、吏をして其の賃を重くし、其の兆を遠くし、其の日を徐にして趨かざらしむ。三年にして台成り、民振う。故に上は遊に説び、民は食に足る。君子曰く、「政は則ち晏子、粟を発きて民に与えんと欲するのみ。若し得可からざらしむれば、則ち物に依りて政に偶す」と。景公、東門の防に登る。民、単服して然る後に上る。公曰く、「此れ大いに牛馬の蹄を傷つく。夫れ何ぞ六尺を下さざる」と。晏子対えて曰く、「昔者吾が先君桓公は明君にして、管仲は賢相なり。夫れ賢相を以て明君を佐くるに、東門の防は全し。古者為さざるは、殆ど為す有ればなり。蚤歳、淄水至り、広門に入る。即ち下すこと六尺のみ。鄉者防を六尺下さば、則ち斉無からん。夫れ古の古常を変うるを重んずとは、此の謂なり」と。
現代語訳
景公の時代に飢饉がありました。晏子は民のために倉の穀物を出すことを願いましたが、公は許しませんでした。ちょうど路寝の台を造るところでした。晏子は役人に賃金を高くし、場所を遠くし、日程をゆっくりして急がせないようにさせました。三年で台が完成し、民は救われました。上の者は遊びを楽しみ、民は食に足りました。君子は言いました。「政治としては、晏子はただ穀物を出して民に与えたかっただけだ。それができないなら、物事に寄りそって政に当てはめたのだ」。また、景公は東門の堤に登りました。民は薄着で登ったのでやっと上がれました。公は言いました。「これは牛馬の蹄をたいへん傷める。どうして六尺低くしないのか」。晏子は答えました。「昔、わが先君桓公は明君で、管仲は賢い宰相でした。賢い宰相が明君を助けたのに、東門の堤は元のままでした。古人がしなかったのは、おそらく理由があったからです。昔、淄水があふれて広門に入ったとき、堤は六尺低かっただけで済みました。もしあの時堤を六尺低くしていたら、斉は滅んでいたでしょう。古人が古い常を変えるのを重んじたというのは、このことをいうのです」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 孝景本紀孝景皇帝は、孝文の中子なり。母は竇太后なり。孝文代に在りし時、前后に三男有り、竇太后幸を得るに及び、前后死し、三子更々死するに及び、故に孝景立つを得たり。元年四月乙卯、天下に赦す。乙巳、民に爵一級を賜ふ。五月、田の半租を除き、孝文の為に太宗の廟を立つ。群臣をして朝賀する無からしむ。匈奴代に入る、与に約して和親す。二年春、故の相国蕭何の孫系を封じて武陵侯と為す。男子二十にして傅することを得。四月壬午、孝文太后崩ず。広川・長沙王皆国に之く。丞相申屠嘉卒す。八月、御史大夫開封の陶青を以て丞相と為す。彗星東北に出づ。秋、衡山雹を雨らす、大なる者五寸、深き者二尺。熒惑逆行し、北辰を守る。月北辰の間に出づ。歳星天廷の中に逆行す。南陵及び内史・祋祤を置きて県と為す。三年正月乙巳、天下に赦す。長星西方に出づ。天火雒陽の東宮の大殿城室を燔く。呉王濞・楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠反し、兵を発して西に郷ふ。天子為に晁錯を誅し、袁盎を遣はして諭告せしむ、止まず、遂に西のかた梁を囲む。上乃ち大将軍竇嬰・太尉周亜夫を遣はして兵を将ゐて之を誅せしむ。六月乙亥、亡軍及び楚の元王の子芸等の謀反に与る者を赦す。大将軍竇嬰を封じて魏其侯と為す。楚の元王の子平陸侯礼を立てて楚王と為す。皇子端を立てて膠西王と為し、子勝を中山王と為す。済北王志を徙して菑川王と為し、淮陽王余を魯王と為し、汝南王非を江都王と為す。斉王将廬・燕王嘉皆薨ず。四年夏、太子を立つ。皇子徹を立てて膠東王と為す。六月甲戌、天下に赦す。
-
『呻吟語』外篇・治道・利を興すに太だ急なる無かれ利を興すに太だ急なる無かれ、左視右盼するを要す。弊を革むるに太だ驟なる無かれ、長慮卻顧するを要す。
-
『新論』守禦夫れ内政修まり、軍令飭ひ、邦国富み、守備班たば、則ち天下の宜しく釐革すべき所の者、大綱挙がる。大綱挙がれば、則ち其の瑣瑣たる者も亦た将に随ひて振起せんとす。夫れ英雄は時を相て変に処す。昔時未だ設けざる所にして、今日宜しく創立すべき所の者、亦た安んぞ熟思して之を講明せざるを得んや。臣を以て之を策すれば曰く、屯兵を設く、曰く、斥候を明らかにす、曰く、水兵を繕ふ、曰く、火器を練る、曰く、資糧を峙ふ。是の五者は、以て創立せざるべからざるなり。
-
『講孟余話』滕文公上 第三章余をして横渠の時に生れしめば、必ず此の事を成さん者をと思へども、幽明道遥かにして詮方なし。況や今囹圄の囚となり、志ありと云へども遂ぐべき様なし。徒に横渠の説を読みて感涙胸を沽すのみ。但し横渠の説は田を画し井となすか最も用意の所と見えたり。仁政は経界より始まるとあれば、此の事固より要務にはあるべけれど、是れは法制に係りたることにて、万一人情に合し土俗に宜からぬことあれば、大いに民間を擾乱するに至る。故に夫れよりは此の一節に云ふ所の実を主として行ひ度きことなり。
-
『政談』制度の事右の如く衣服等の制度を定めんにはかはり目のきわ境なくては叶はさること也、先つ東照宮へ御告あるへきことなり、日光御社参を仰せ出され、二年三年も前より御供廻の装束、諸大名の参詣の装束此度は斯の如くあるへしと号令ありて篤と支度させ、夫より直に平日に用ゆるやうに有りたきことなり、右一同上下仕換ゆることなれは、我人悪しきと、又例の手くせを出し利をまうけんとたくむへけれは、其の手当あるへきこと也、右の如く武家の制度を委細に立つること倹約の至極なれとも、諸事を新たに仕換ゆることなれは、当時困窮したる世界にては次第なく急にはなりかたかるへし、只先つ道中幷に御城下は幾何の供廻りを減少し、諸大名は江戸詰の家来を少くし、銭を鋳、貸借の道を開き、御旗本の諸士家中の武士のことは先つ其の儘にし置き、諸事の簡易に取捌くはかりにして最初に町人百姓と武家との差別を急度立つへきことなり、一切の事大そうなる事は先つ粗を立てゝ後に細にするときは仕よきものあり、前後緩急のついでとはこれを云ふなり、
-
史記 趙世家今胡服の意は、以て欲を養ひて志を楽しましむるに非ざるなり。事に止まる所有りて功に出づる所有り、事成り功立ちて、然る後に善きなり。今寡人、叔の政に従ふの経に逆らはんことを恐れ、以て叔の議を輔く。且つ寡人之を聞く、事の国を利する者は行ひに邪無く、貴戚に因る者は名累はされずと。故に願はくは公叔の義を慕ひ、以て胡服の功を成さん。紲をして之を叔に謁せしむ。請ふ服せよ」と。公子成再拝稽首して曰く、「臣固より王の胡服を聞けり。臣不佞にして、寝疾し、未だ趨走して以て滋々進むこと能はず。王之を命ず。臣敢へて対へ、因りて其の愚忠を竭くさん。曰く、臣聞く、中国は、蓋し聡明徇智の居る所なり、万物財用の聚まる所なり、賢聖の教ふる所なり、仁義の施す所なり、詩書礼楽の用ふる所なり、異敏技能の試みる所なり、遠方の観赴する所なり、蛮夷の義として行ふ所なりと。今王此を捨てて遠方の服を襲ひ、古の教へを変じ、古人の道を易へ、人の心に逆らひて、学者に怫り、中国に離る。故に臣願はくは王之を図れ」と。使者以て報ず。王曰く、「吾固より叔の疾を聞けり。我将に自ら往きて之に請はんとす」と。王遂に往きて公子成の家に之き、因りて自ら之に請ひて曰く、「夫れ服は、用を便にする所以なり。礼は、事を便にする所以なり。聖人は郷を観て宜しきに順ひ、事に因りて礼を制す。其の民を利して其の国を厚くする所以なり。夫れ髪を翦り身に文し、臂に錯して衽を左にするは、甌越の民なり。歯を黒くし題に雕り、冠を卻にして秫絀なるは、大呉の国なり。故に礼服同じき莫きも、其の便は一なり。郷異なれば用変じ、事異なれば礼易はる。是を以て聖人は果たして以て其の国を利すべくんば、其の用を一にせず。果たして以て其の事を便にすべくんば、其の礼を同じくせず。儒者は師を一にして俗異なり、中国は礼を同じくして教へ離る。況んや山谷の便に於てをや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る