維摩経 / 入不二法門品第九(3)
深慧菩薩曰。是空是無相是無作為二。空即無相無相即無作。若空無相無作則無心意識。於一解脫門即是三解脫門者。是為入不二法門。 寂根菩薩曰。佛法眾為二。佛即是法法即是眾。是三寶皆無為相與虛空等。一切法亦爾。能隨此行者。是為入不二法門。 心無礙菩薩曰。身身滅為二。身即是身滅。所以者何。見身實相者不起見身及見滅身。身與滅身無二無分別。於其中不驚不懼者。是為入不二法門。 上善菩薩曰。身口意善為二。是三業皆無作相。身無作相即口無作相。口無作相即意無作相。是三業無作相即一切法無作相。能如是隨無作慧者。是為入不二法門。 福田菩薩曰。福行罪行不動行為二。三行實性即是空。空則無福行無罪行無不動行。於此三行而不起者。是為入不二法門。 華嚴菩薩曰。從我起二為二。見我實相者不起二法。若不住二法則無有識。無所識者。是為入不二法門。 德藏菩薩曰。有所得相為二。若無所得則無取捨。無取捨者。是為入不二法門。 月上菩薩曰。闇與明為二。無闇無明則無有二。所以者何。如入滅受想定無闇無明一切法相亦復如是。於其中平等入者。是為入不二法門。 寶印手菩薩曰。樂涅槃不樂世間為二。若不樂涅槃不厭世間則無有二。所以者何。若有縛則有解。若本無縛其誰求解。無縛無解則無樂厭。是為入不二法門。
新字:深慧菩薩曰。是空是無相是無作為二。空即無相無相即無作。若空無相無作則無心意識。於一解脱門即是三解脱門者。是為入不二法門。 寂根菩薩曰。仏法衆為二。仏即是法法即是衆。是三宝皆無為相与虚空等。一切法亦爾。能随此行者。是為入不二法門。 心無礙菩薩曰。身身滅為二。身即是身滅。所以者何。見身実相者不起見身及見滅身。身与滅身無二無分別。於其中不驚不懼者。是為入不二法門。 上善菩薩曰。身口意善為二。是三業皆無作相。身無作相即口無作相。口無作相即意無作相。是三業無作相即一切法無作相。能如是随無作慧者。是為入不二法門。 福田菩薩曰。福行罪行不動行為二。三行実性即是空。空則無福行無罪行無不動行。於此三行而不起者。是為入不二法門。 華厳菩薩曰。従我起二為二。見我実相者不起二法。若不住二法則無有識。無所識者。是為入不二法門。 徳蔵菩薩曰。有所得相為二。若無所得則無取捨。無取捨者。是為入不二法門。 月上菩薩曰。闇与明為二。無闇無明則無有二。所以者何。如入滅受想定無闇無明一切法相亦復如是。於其中平等入者。是為入不二法門。 宝印手菩薩曰。楽涅槃不楽世間為二。若不楽涅槃不厭世間則無有二。所以者何。若有縛則有解。若本無縛其誰求解。無縛無解則無楽厭。是為入不二法門。
書き下し
深慧菩薩の曰わく、是れ空、是れ無相、是れ無作を二と為す。空は即ち無相、無相は即ち無作なり。若し空・無相・無作ならば、則ち心意識無し。一解脱門に於いて即ち是れ三解脱門なる者は、是れを不二法門に入ると為す。 寂根菩薩の曰わく、仏・法・衆を二と為す。仏は即ち是れ法、法は即ち是れ衆なり。是の三宝は皆無為の相にして、虚空と等し。一切の法も亦た爾り。能く此の行に随う者は、是れを不二法門に入ると為す。 心無礙菩薩の曰わく、身と身滅とを二と為す。身は即ち是れ身滅なり。所以は何ん。身の実相を見る者は、身を見ることと身滅を見ることを起こさず。身と身滅とは二無く分別無し。其の中に於いて驚かず懼れざる者は、是れを不二法門に入ると為す。 上善菩薩の曰わく、身・口・意の善を二と為す。是の三業は皆無作の相なり。身の無作の相は即ち口の無作の相、口の無作の相は即ち意の無作の相なり。是の三業の無作の相は即ち一切法の無作の相なり。能く是くの如く無作の慧に随う者は、是れを不二法門に入ると為す。 福田菩薩の曰わく、福行・罪行・不動行を二と為す。三行の実性は即ち是れ空なり。空なれば則ち福行無く、罪行無く、不動行無し。此の三行に於いて起こさざる者は、是れを不二法門に入ると為す。 華厳菩薩の曰わく、我より二を起こすを二と為す。我の実相を見る者は、二法を起こさず。若し二法に住せずんば則ち識有ること無し。識る所無き者は、是れを不二法門に入ると為す。 徳蔵菩薩の曰わく、所得の相有るを二と為す。若し所得無くんば則ち取捨無し。取捨無き者は、是れを不二法門に入ると為す。 月上菩薩の曰わく、闇と明とを二と為す。闇無く明無くんば則ち二有ること無し。所以は何ん。滅受想定に入るが如きは、闇無く明無し。一切の法相も亦復た是くの如し。其の中に於いて平等に入る者は、是れを不二法門に入ると為す。 宝印手菩薩の曰わく、涅槃を楽い世間を楽わざるを二と為す。若し涅槃を楽わず世間を厭わずんば則ち二有ること無し。所以は何ん。若し縛有らば則ち解有り。若し本より縛無くんば其れ誰か解を求めん。縛無く解無くんば則ち楽厭無し。是れを不二法門に入ると為す。
現代語訳
深慧菩薩は言いました。空、無相、無作を二つとします。空はそのまま無相であり、無相はそのまま無作です。空であり、無相であり、無作であれば、心も意識もありません。一つの解脱の門がそのまま三つの解脱の門である者は、不二の法門に入ります。 寂根菩薩は言いました。仏・法・僧を二つとします。仏はそのまま法であり、法はそのまま僧です。この三宝はすべて無為の相で、虚空と等しいものです。あらゆる法もまたそうです。この行に従える者は、不二の法門に入ります。 心無礙菩薩は言いました。身と身の滅を二つとします。身はそのまま身の滅です。なぜなら、身の真の姿を見る者は、身を見ることも、身が滅するのを見ることも起こさないからです。身と身の滅は二つではなく、分別もありません。その中で驚かず、恐れない者は、不二の法門に入ります。 上善菩薩は言いました。身・口・意の善を二つとします。この三つの業はすべて、作ることのない相です。身の無作の相はそのまま口の無作の相であり、口の無作の相はそのまま意の無作の相です。この三つの業の無作の相はそのままあらゆる法の無作の相です。このように無作の智慧に従える者は、不二の法門に入ります。 福田菩薩は言いました。福の行い、罪の行い、不動の行いを二つとします。この三つの行いの本性はそのまま空です。空であれば、福の行いも罪の行いも不動の行いもありません。この三つの行いを起こさない者は、不二の法門に入ります。 華厳菩薩は言いました。我から二つのものを起こすことを二つとします。我の真の姿を見る者は、二つの法を起こしません。二つの法に住さなければ、識別もありません。識別するものがない者は、不二の法門に入ります。 徳蔵菩薩は言いました。得るという相があることを二つとします。得るものがなければ、取ることも捨てることもありません。取ることも捨てることもない者は、不二の法門に入ります。 月上菩薩は言いました。闇と明を二つとします。闇も明もなければ、二つはありません。なぜなら、受と想が滅する定に入ったときは、闇も明もないように、あらゆる法の相もそのとおりだからです。その中で平等に入る者は、不二の法門に入ります。 宝印手菩薩は言いました。涅槃を願って世間を願わないことを二つとします。涅槃を願わず世間も厭わなければ、二つはありません。なぜなら、縛りがあれば解くことがありますが、もともと縛りがなければ、誰が解くことを求めるでしょう。縛りも解きもなければ、願うことも厭うこともありません。これが不二の法門に入るということです。
解説

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『碧巌録』第八十四則挙す。維摩詰、文殊師利に問ふ、「何等か是れ菩薩、不二法門に入る」。文殊曰く、「我が意の如きは、一切法に於て、言無く説無く、示無く識無く、諸の問答を離る、是れを不二法門に入ると為す」。是に於て文殊師利、維摩詰に問ふ、「我等各自に説き已んぬ、仁者当に説くべし、何等か是れ菩薩、不二法門に入る」。雪竇云く、「維摩、什麼をか道ふ」。復た云く、「勘破し了れり」。
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