維摩経 / 入不二法門品第九(2)
那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門。 善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門。 現見菩薩曰。盡不盡為二。法若究竟盡若不盡皆是無盡相。無盡相即是空。空則無有盡不盡相。如是入者。是為入不二法門。 普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門。 電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門。 喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門。 明相菩薩曰。四種異空種異為二。四種性即是空種性。如前際後際空故中際亦空。若能如是知諸種性者。是為入不二法門。 妙意菩薩曰。眼色為二。若知眼性於色不貪不恚不癡。是名寂滅。如是耳聲鼻香舌味身觸意法為二。若知意性於法不貪不恚不癡。是名寂滅。安住其中。是為入不二法門。 無盡意菩薩曰。布施迴向一切智為二。布施性即是迴向一切智性。如是持戒忍辱精進禪定智慧。迴向一切智為二。智慧性即是迴向一切智性。於其中入一相者。是為入不二法門。
新字:那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門。 善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門。 現見菩薩曰。尽不尽為二。法若究竟尽若不尽皆是無尽相。無尽相即是空。空則無有尽不尽相。如是入者。是為入不二法門。 普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我実性者不復起二。是為入不二法門。 電天菩薩曰。明無明為二。無明実性即是明。明亦不可取離一切数。於其中平等無二者。是為入不二法門。 喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門。 明相菩薩曰。四種異空種異為二。四種性即是空種性。如前際後際空故中際亦空。若能如是知諸種性者。是為入不二法門。 妙意菩薩曰。眼色為二。若知眼性於色不貪不恚不痴。是名寂滅。如是耳声鼻香舌味身触意法為二。若知意性於法不貪不恚不痴。是名寂滅。安住其中。是為入不二法門。 無尽意菩薩曰。布施迴向一切智為二。布施性即是迴向一切智性。如是持戒忍辱精進禅定智慧。迴向一切智為二。智慧性即是迴向一切智性。於其中入一相者。是為入不二法門。
書き下し
那羅延菩薩の曰わく、世間と出世間とを二と為す。世間の性空なるは即ち是れ出世間なり。其の中に於いて入らず出でず、溢れず散ぜず。是れを不二法門に入ると為す。 善意菩薩の曰わく、生死と涅槃とを二と為す。若し生死の性を見れば則ち生死無し。縛無く解無く、不生不滅なり。是くの如く解する者は、是れを不二法門に入ると為す。 現見菩薩の曰わく、尽と不尽とを二と為す。法若しは究竟して尽き、若しは尽きざるも、皆是れ無尽の相なり。無尽の相は即ち是れ空なり。空なれば則ち尽不尽の相有ること無し。是くの如く入る者は、是れを不二法門に入ると為す。 普守菩薩の曰わく、我と無我とを二と為す。我すら尚お不可得なるに、非我何ぞ得べけん。我の実性を見る者は、復た二を起こさず。是れを不二法門に入ると為す。 電天菩薩の曰わく、明と無明とを二と為す。無明の実性は即ち是れ明なり。明も亦た取るべからず、一切の数を離る。其の中に於いて平等にして二無き者は、是れを不二法門に入ると為す。 喜見菩薩の曰わく、色と色空とを二と為す。色は即ち是れ空にして、色滅して空なるに非ず、色の性自ずから空なり。是くの如く受・想・行・識、識と識空とを二と為す。識は即ち是れ空にして、識滅して空なるに非ず、識の性自ずから空なり。其の中に於いて通達する者は、是れを不二法門に入ると為す。 明相菩薩の曰わく、四種の異と空種の異とを二と為す。四種の性は即ち是れ空種の性なり。前際・後際の空なるが如く、故に中際も亦た空なり。若し能く是くの如く諸の種性を知る者は、是れを不二法門に入ると為す。 妙意菩薩の曰わく、眼と色とを二と為す。若し眼の性を知れば、色に於いて貪らず恚らず癡ならず、是れを寂滅と名づく。是くの如く耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を二と為す。若し意の性を知れば、法に於いて貪らず恚らず癡ならず、是れを寂滅と名づく。其の中に安住す。是れを不二法門に入ると為す。 無尽意菩薩の曰わく、布施と一切智に迴向するとを二と為す。布施の性は即ち是れ一切智に迴向する性なり。是くの如く持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、一切智に迴向するとを二と為す。智慧の性は即ち是れ一切智に迴向する性なり。其の中に於いて一相に入る者は、是れを不二法門に入ると為す。
現代語訳
那羅延菩薩は言いました。世間と出世間を二つとします。世間の本性が空であることが、そのまま出世間です。その中で、入ることも出ることもなく、あふれることも散ることもありません。これが不二の法門に入るということです。 善意菩薩は言いました。生死と涅槃を二つとします。生死の本性を見れば、生死はありません。縛るものも解くものもなく、生じることも滅することもありません。このように理解する者は、不二の法門に入ります。 現見菩薩は言いました。尽きることと尽きないことを二つとします。法が究極に尽きるにせよ尽きないにせよ、すべて尽きることのない相です。尽きない相はそのまま空です。空であれば、尽きる尽きないという相もありません。このように入る者は、不二の法門に入ります。 普守菩薩は言いました。我と無我を二つとします。我すら得られないのに、非我がどうして得られるでしょう。我の本当の性質を見る者は、もう二つの見方を起こしません。これが不二の法門に入るということです。 電天菩薩は言いました。明と無明を二つとします。無明の本当の性質はそのまま明です。明もまた取ることができず、あらゆる数を離れています。その中で平等で二つのない者は、不二の法門に入ります。 喜見菩薩は言いました。色と色の空を二つとします。色はそのまま空であり、色が滅して空になるのではなく、色の本性が自ずから空です。受・想・行・識も同じで、識と識の空を二つとします。識はそのまま空であり、識が滅して空になるのではなく、識の本性が自ずから空です。その中で通達する者は、不二の法門に入ります。 明相菩薩は言いました。四つの元素の違いと空という元素の違いを二つとします。四つの元素の本性はそのまま空という元素の本性です。過去も未来も空であるように、現在も空です。このようにあらゆる元素の本性を知る者は、不二の法門に入ります。 妙意菩薩は言いました。眼と色を二つとします。眼の本性を知れば、色に対して貪らず、怒らず、愚かでなくなり、これを寂滅と呼びます。同じように、耳と声、鼻と香り、舌と味、身と触れるもの、意と法を二つとします。意の本性を知れば、法に対して貪らず、怒らず、愚かでなくなり、これを寂滅と呼びます。そこに安住します。これが不二の法門に入るということです。 無尽意菩薩は言いました。布施と、それを一切智に振り向けることを二つとします。布施の本性はそのまま、一切智に振り向ける本性です。同じように、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧も、一切智に振り向けることを二つとします。智慧の本性はそのまま、一切智に振り向ける本性です。その中で一つの相に入る者は、不二の法門に入ります。
解説

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