維摩経 / 觀眾生品第七(3)
文殊師利又問。何謂為悲。答曰。菩薩所作功德。皆與一切眾生共之。何謂為喜。答曰。有所饒益歡喜無悔。何謂為捨。答曰。所作福祐無所悕望。文殊師利又問。生死有畏菩薩當何所依。維摩詰言。菩薩於生死畏中。當依如來功德之力。文殊師利又問。菩薩欲依如來功德之力。當於何住。答曰。菩薩欲依如來功德力者。當住度脫一切眾生。又問。欲度眾生當何所除。答曰。欲度眾生除其煩惱。又問。欲除煩惱當何所行。答曰。當行正念。又問。云何行於正念。答曰。當行不生不滅。又問。何法不生何法不滅。答曰。不善不生善法不滅。又問。善不善孰為本。答曰身為本。又問。身孰為本。答曰。欲貪為本。又問。欲貪孰為本。答曰。虛妄分別為本。又問。虛妄分別孰為本。答曰。顛倒想為本。又問。顛倒想孰為本。答曰。無住為本。又問。無住孰為本。答曰。無住則無本。文殊師利。從無住本立一切法。
新字:文殊師利又問。何謂為悲。答曰。菩薩所作功徳。皆与一切衆生共之。何謂為喜。答曰。有所饒益歓喜無悔。何謂為捨。答曰。所作福祐無所悕望。文殊師利又問。生死有畏菩薩当何所依。維摩詰言。菩薩於生死畏中。当依如来功徳之力。文殊師利又問。菩薩欲依如来功徳之力。当於何住。答曰。菩薩欲依如来功徳力者。当住度脱一切衆生。又問。欲度衆生当何所除。答曰。欲度衆生除其煩悩。又問。欲除煩悩当何所行。答曰。当行正念。又問。云何行於正念。答曰。当行不生不滅。又問。何法不生何法不滅。答曰。不善不生善法不滅。又問。善不善孰為本。答曰身為本。又問。身孰為本。答曰。欲貪為本。又問。欲貪孰為本。答曰。虚妄分別為本。又問。虚妄分別孰為本。答曰。顛倒想為本。又問。顛倒想孰為本。答曰。無住為本。又問。無住孰為本。答曰。無住則無本。文殊師利。従無住本立一切法。
書き下し
文殊師利又問う、何をか謂いて悲と為す、と。答えて曰わく、菩薩の作す所の功徳、皆一切衆生と之を共にす。何をか謂いて喜と為す、と。答えて曰わく、饒益する所有りて歓喜して悔い無し。何をか謂いて捨と為す、と。答えて曰わく、作す所の福祐、悕望する所無し。文殊師利又問う、生死に畏れ有り、菩薩は当に何れの所に依るべきや、と。維摩詰の言わく、菩薩は生死の畏れの中に於いて、当に如来の功徳の力に依るべし。文殊師利又問う、菩薩如来の功徳の力に依らんと欲せば、当に何れの所に住すべきや、と。答えて曰わく、菩薩如来の功徳力に依らんと欲せば、当に一切衆生を度脱するに住すべし。又問う、衆生を度せんと欲せば、当に何をか除くべきや、と。答えて曰わく、衆生を度せんと欲せば、其の煩悩を除け。又問う、煩悩を除かんと欲せば、当に何をか行ずべきや、と。答えて曰わく、当に正念を行ずべし。又問う、云何が正念を行ずるや、と。答えて曰わく、当に不生不滅を行ずべし。又問う、何の法か生ぜず、何の法か滅せざる、と。答えて曰わく、不善は生ぜず、善法は滅せず。又問う、善と不善とは孰れか本と為す、と。答えて曰わく、身を本と為す。又問う、身は孰れか本と為す、と。答えて曰わく、欲貪を本と為す。又問う、欲貪は孰れか本と為す、と。答えて曰わく、虚妄分別を本と為す。又問う、虚妄分別は孰れか本と為す、と。答えて曰わく、顛倒想を本と為す。又問う、顛倒想は孰れか本と為す、と。答えて曰わく、無住を本と為す。又問う、無住は孰れか本と為す、と。答えて曰わく、無住なれば則ち本無し。文殊師利、無住の本より一切の法を立つ。
現代語訳
文殊師利がさらに尋ねました。悲とは何をいうのですか。答えました。菩薩が行う功徳を、すべての衆生とともにすることです。喜とは何をいうのですか。答えました。人を利益することがあって、喜び、悔いのないことです。捨とは何をいうのですか。答えました。行った福徳の行いに、見返りを望まないことです。文殊師利がまた尋ねました。生死には畏れがあります。菩薩は何に依ればよいのですか。維摩詰は答えました。菩薩は生死の畏れの中にあって、如来の功徳の力に依るべきです。また尋ねました。如来の功徳の力に依ろうとするなら、何に身を置けばよいのですか。答えました。すべての衆生を救い取ることに身を置くべきです。また問いました。衆生を救おうとするなら、何を除けばよいのですか。答えました。その煩悩を除くことです。また問いました。煩悩を除こうとするなら、何を行えばよいのですか。答えました。正しい念を行うことです。また問いました。どのように正念を行うのですか。答えました。不生不滅を行うことです。また問いました。何が生ぜず、何が滅しないのですか。答えました。不善は生じず、善の法は滅しません。また問いました。善と不善は何を根本とするのですか。答えました。身を根本とします。また問いました。身は何を根本とするのですか。答えました。欲や貪りを根本とします。また問いました。欲や貪りは何を根本とするのですか。答えました。虚妄の分別を根本とします。また問いました。虚妄の分別は何を根本とするのですか。答えました。顛倒した想いを根本とします。また問いました。顛倒した想いは何を根本とするのですか。答えました。とどまる所のないこと、無住を根本とします。また問いました。無住は何を根本とするのですか。答えました。無住であるならば、そもそも根本はありません。文殊師利よ、この無住という根本から、あらゆる法が成り立つのです。
解説

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維摩経・觀眾生品第七(2)文殊師利の言わく、若し菩薩是の観を作さば、云何が慈を行ずるや。維摩詰の言わく、菩薩是の観を作し已りて自ら念ず、我当に衆生の為に斯くの如き法を説くべし、と。是れ即ち真実の慈なり。寂滅の慈を行ず、生ずる所無きが故に。不熱の慈を行ず、煩悩無きが故に。等の慈を行ず、三世に等しきが故に。無諍の慈を行ず、起こる所無きが故に。不二の慈を行ず、内外合せざるが故に。不壊の慈を行ず、畢竟尽くるが故に。堅固の慈を行ず、心毀つこと無きが故に。清浄の慈を行ず、諸法の性浄きが故に。無辺の慈を行ず、虚空の如きが故に。阿羅漢の慈を行ず、結の賊を破るが故に。菩薩の慈を行ず、衆生を安んずるが故に。如来の慈を行ず、如相を得るが故に。仏の慈を行ず、衆生を覚らしむるが故に。自然の慈を行ず、因無くして得るが故に。菩提の慈を行ず、等しく一味なるが故に。無等の慈を行ず、諸の愛を断つが故に。大悲の慈を行ず、導くに大乗を以てするが故に。無厭の慈を行ず、空・無我を観ずるが故に。法施の慈を行ず、遺し惜しむこと無きが故に。持戒の慈を行ず、毀禁を化するが故に。忍辱の慈を行ず、彼我を護るが故に。精進の慈を行ず、衆生を荷負するが故に。禅定の慈を行ず、味を受けざるが故に。智慧の慈を行ず、知らざる時無きが故に。方便の慈を行ず、一切に示現するが故に。無隠の慈を行ず、直心清浄なるが故に。深心の慈を行ず、雑行無きが故に。無誑の慈を行ず、虚仮ならざるが故に。安楽の慈を行ず、仏の楽を得しむるが故に。菩薩の慈、此くの若しと為すなり。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(2)維摩詰言わく、「癡より愛有りて、則ち我が病生ず。一切衆生の病めるを以て、是の故に我病む。若し一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅す。所以は何ん。菩薩は衆生の為の故に生死に入る。生死有れば則ち病有り。若し衆生病を離るることを得ば、則ち菩薩に復た病無し。譬えば長者に唯だ一子有り、其の子病を得れば父母も亦病み、若し子の病愈ゆれば父母も亦愈ゆるが如し。菩薩も是の如し。諸の衆生に於いて之を愛すること子の若し。衆生病めば則ち菩薩病み、衆生の病愈ゆれば菩薩も亦愈ゆ。又、言わく、是の疾は何れの所にか因りて起こるとは、菩薩の病は大悲を以て起こる」と。 文殊師利言わく、「居士、此の室は何を以て空しくして侍者無きや」と。維摩詰言わく、「諸仏の国土も亦復た皆空なり」と。 又問う、「何を以て空と為す」と。答えて曰わく、「空を以て空なり」と。 又問う、「空は何ぞ空を用いん」と。答えて曰わく、「分別無き空なるを以ての故に空なり」と。 又問う、「空は分別す可きや」と。答えて曰わく、「分別も亦空なり」と。 又問う、「空は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に六十二見の中に於いて求むべし」と。 又問う、「六十二見は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に諸仏の解脱の中に於いて求むべし」と。 又問う、「諸仏の解脱は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に一切衆生の心行の中に於いて求むべし」と。又、仁の問う所の何ぞ侍者無きやとは、一切の衆魔及び諸の外道は皆吾が侍なり。所以は何ん。衆魔とは生死を楽しむ。菩薩は生死に於いて捨てず。外道とは諸見を楽しむ。菩薩は諸見に於いて動ぜず。 文殊師利言わく、「居士の疾む所は、何等の相と為すや」と。維摩詰言わく、「我が病は形無くして見る可からず」と。 又問う、「此の病は身と合するや、心と合するや」と。答えて曰わく、「身と合するに非ず、身の相離るるが故に。亦た心と合するに非ず、心は幻の如きが故に」と。 又問う、「地大・水大・火大・風大、此の四大に於いて何れの大の病なるや」と。答えて曰わく、「是の病は地大に非ず、亦た地大を離れず。水・火・風大も亦復た是の如し。而も衆生の病は四大より起こる。其の病有るを以て、是の故に我病む」と。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(6)文殊師利、有疾の菩薩は応に是の如く其の心を調伏して其の中に住せざるべし。亦復た調伏せざる心にも住せず。所以は何ん。若し調伏せざる心に住せば是れ愚人の法なり。若し調伏する心に住せば是れ声聞の法なり。是の故に菩薩は調伏と不調伏の心に住すべからず。此の二法を離るるは是れ菩薩の行なり。生死に在りて污行を為さず、涅槃に住して永く滅度せざるは、是れ菩薩の行なり。凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。垢の行に非ず、浄の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。魔の行を過ぐと雖も、而も衆魔を降すを現ずるは、是れ菩薩の行なり。一切智を求めて非時の求無きは、是れ菩薩の行なり。諸法の不生を観ずと雖も、而も正位に入らざるは、是れ菩薩の行なり。十二縁起を観ずと雖も、而も諸の邪見に入るは、是れ菩薩の行なり。一切衆生を摂すと雖も、而も愛著せざるは、是れ菩薩の行なり。遠離を楽しむと雖も、而も身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。三界を行ずと雖も、而も法性を壊せざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずと雖も、而も衆の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。無作を行ずと雖も、而も受身を現ずるは、是れ菩薩の行なり。無起を行ずと雖も、而も一切の善行を起こすは、是れ菩薩の行なり。六波羅蜜を行ずと雖も、而も遍く衆生の心・心数の法を知るは、是れ菩薩の行なり。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(5)是の如く老病死を兼ね除く者は、菩薩の謂いなり。彼の有疾の菩薩は、応に復た是の念を作すべし。我が此の病の如く、非真非有なり。衆生の病も亦た非真非有なり。是の観を作す時、諸の衆生に於いて若し愛見の大悲を起こさば、即ち応に捨離すべし。所以は何ん。菩薩は客塵の煩悩を断除して大悲を起こす。愛見の悲とは、則ち生死に於いて疲厭の心有り。若し能く此れを離るれば疲厭有ること無く、在在の所生に愛見の覆う所と為らず。所生に縛無くして、能く衆生の為に法を説きて縛を解く。仏の説きたまう所の如し、若し自ら縛有れば能く彼の縛を解くこと、是の処有ること無し。若し自ら縛無くば、能く彼の縛を解くこと、斯の処有り。是の故に菩薩は縛を起こすべからず。何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著するは是れ菩薩の縛なり。方便を以て生ずるは是れ菩薩の解なり。又、方便無き慧は縛、方便有る慧は解、慧無き方便は縛、慧有る方便は解なり。何をか方便無き慧の縛と謂う。謂わく、菩薩、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就し、空・無相・無作の法の中に於いて自ら調伏するを、是れを方便無き慧の縛と名づく。何をか方便有る慧の解と謂う。謂わく、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就せず、空・無相・無作の法の中に於いて、自ら調伏するを以て而も疲厭せざるを、是れを方便有る慧の解と名づく。何をか慧無き方便の縛と謂う。謂わく、菩薩、貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩に住して、而も衆の徳本を植うるを、是れを慧無き方便の縛と名づく。何をか慧有る方便の解と謂う。謂わく、諸の貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩を離れて、而も衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するを、是れを慧有る方便の解と名づく。文殊師利、彼の有疾の菩薩は、応に是の如く諸法を観ずべし。又復た身は無常・苦・空・非我なりと観ずる、是れを慧と為す。身に疾有りと雖も常に生死に在りて、一切を饒益して厭倦せざる、是れを方便と為す。又復た身を観るに、身は病を離れず、病は身を離れず。是の病、是の身、新に非ず故に非ずと観ずる、是れを慧と為す。設い身に疾有るも永く滅せざる、是れを方便と為す。
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維摩経・佛道品第八(1)爾の時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、菩薩は云何が仏道に通達するや、と。維摩詰の言わく、若し菩薩、非道を行ずれば、是れ仏道に通達すと為す。又問う、云何が菩薩、非道を行ずるや、と。答えて曰わく、若し菩薩、五無間を行じて而も悩恚無く、地獄に至りて諸の罪垢無く、畜生に至りて無明・憍慢等の過無く、餓鬼に至りて功徳を具足し、色・無色界の道を行じて以て勝れりと為さず、貪欲を行ずと示して諸の染著を離れ、瞋恚を行ずと示して諸の衆生に於いて恚礙有ること無く、愚癡を行ずと示して智慧を以て其の心を調伏し、慳貪を行ずと示して内外の所有を捨て身命を惜しまず、毀禁を行ずと示して浄戒に安住し、乃至小罪にも猶お大懼を懐き、瞋恚を行ずと示して常に慈忍し、懈怠を行ずと示して懃めて功徳を修め、乱意を行ずと示して常に定を念じ、愚癡を行ずと示して世間・出世間の慧に通達し、諂偽を行ずと示して善く方便して諸の経義に随い、憍慢を行ずと示して衆生に於いて猶お橋梁の如く、諸の煩悩を行ずと示して心常に清浄なり。魔に入ると示して仏の智慧に順じて他の教えに随わず、声聞に入ると示して衆生の為に未だ聞かざる法を説き、辟支仏に入ると示して大悲を成就して衆生を教化し、貧窮に入ると示して宝手の功徳尽くること無く、刑残に入ると示して諸の相好を具して以て自ら荘厳し、下賤に入ると示して仏の種姓の中に生まれて諸の功徳を具し、羸劣・醜陋に入ると示して那羅延の身を得て一切衆生の楽見する所となり、老病に入ると示して永く病根を断じ死の畏れを超越し、資生有ると示して恒に無常を観じて実に貪る所無く、妻妾・采女有ると示して常に五欲の淤泥を遠離し、訥鈍を現じて辯才・総持を成就して失うこと無く、邪済に入ると示して正済を以て諸の衆生を度し、遍く諸道に入ると現じて其の因縁を断じ、涅槃を現じて生死を断ぜず。文殊師利、菩薩能く是くの如く非道を行ずれば、是れを仏道に通達すと為す。