維摩経 / 弟子品第三(7)
佛告摩訶迦旃延。汝行詣維摩詰問疾。迦旃延白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔者佛為諸比丘略說法要。我即於後敷演其義。謂無常義苦義空義無我義寂滅義。時維摩詰來謂我言。唯迦旃延。無以生滅心行說實相法。迦旃延。諸法畢竟不生不滅。是無常義。五受陰洞達空無所起。是苦義。諸法究竟無所有。是空義。於我無我而不二。是無我義。法本不然今則無滅。是寂滅義。說是法時彼諸比丘心得解脫。故我不任詣彼問疾。 佛告阿那律。汝行詣維摩詰問疾。阿那律白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於一處經行。時有梵王名曰嚴淨。與萬梵俱放淨光明來詣我所。稽首作禮問我言。幾何阿那律天眼所見。我即答言。仁者。吾見此釋迦牟尼佛土三千大千世界。如觀掌中菴摩勒果。時維摩詰來謂我言。唯阿那律。天眼所見為作相耶。無作相耶。假使作相則與外道五通等。若無作相即是無為不應有見。世尊。我時默然。彼諸梵聞其言得未曾有。即為作禮而問曰。世孰有真天眼者。維摩詰言。有佛世尊得真天眼。常在三昧悉見諸佛國不以二相。於是嚴淨梵王及其眷屬五百梵天。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。禮維摩詰足已忽然不現。故我不任詣彼問疾。
新字:仏告摩訶迦旃延。汝行詣維摩詰問疾。迦旃延白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔者仏為諸比丘略説法要。我即於後敷演其義。謂無常義苦義空義無我義寂滅義。時維摩詰来謂我言。唯迦旃延。無以生滅心行説実相法。迦旃延。諸法畢竟不生不滅。是無常義。五受陰洞達空無所起。是苦義。諸法究竟無所有。是空義。於我無我而不二。是無我義。法本不然今則無滅。是寂滅義。説是法時彼諸比丘心得解脱。故我不任詣彼問疾。 仏告阿那律。汝行詣維摩詰問疾。阿那律白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於一処経行。時有梵王名曰厳浄。与万梵倶放浄光明来詣我所。稽首作礼問我言。幾何阿那律天眼所見。我即答言。仁者。吾見此釈迦牟尼仏土三千大千世界。如観掌中菴摩勒果。時維摩詰来謂我言。唯阿那律。天眼所見為作相耶。無作相耶。仮使作相則与外道五通等。若無作相即是無為不応有見。世尊。我時黙然。彼諸梵聞其言得未曽有。即為作礼而問曰。世孰有真天眼者。維摩詰言。有仏世尊得真天眼。常在三昧悉見諸仏国不以二相。於是厳浄梵王及其眷属五百梵天。皆発阿耨多羅三藐三菩提心。礼維摩詰足已忽然不現。故我不任詣彼問疾。
書き下し
仏、摩訶迦旃延に告げたまわく、汝、行きて維摩詰に詣り疾を問え。迦旃延、仏に白して言さく、世尊、我、彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに、昔、仏、諸の比丘の為に略して法要を説きたまいし時、我、即ち後に於て其の義を敷演し、無常の義・苦の義・空の義・無我の義・寂滅の義を謂いき。時に維摩詰来たりて我に謂いて言わく、唯、迦旃延、生滅の心行を以て実相の法を説くこと無かれ。迦旃延、諸法は畢竟じて不生不滅なり。是れ無常の義なり。五受陰は洞達して空にして起こる所無し。是れ苦の義なり。諸法は究竟して所有無し。是れ空の義なり。我に於て無我にして不二なり。是れ無我の義なり。法は本より然えず、今則ち滅無し。是れ寂滅の義なり。是の法を説きし時、彼の諸の比丘、心に解脱を得たり。故に我、彼に詣りて疾を問うに任せず。 仏、阿那律に告げたまわく、汝、行きて維摩詰に詣り疾を問え。阿那律、仏に白して言さく、世尊、我、彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに、我、昔、一処に於て経行せし時、梵王有り、名を厳浄と曰い、万の梵と俱に浄光明を放ちて我が所に来詣し、稽首作礼して我に問いて言わく、幾何ぞ阿那律の天眼の見る所は、と。我、即ち答えて言わく、仁者、吾、此の釈迦牟尼仏土の三千大千世界を見ること、掌中の菴摩勒果を観るが如し、と。時に維摩詰来たりて我に謂いて言わく、唯、阿那律、天眼の見る所は作相と為すや、無作相と為すや。仮使作相ならば則ち外道の五通と等し。若し無作相ならば即ち是れ無為にして、応に見有るべからず、と。世尊、我、時に黙然たり。彼の諸の梵、其の言を聞きて未曾有を得、即ち為に作礼して問いて曰く、世に孰か真の天眼有る者ぞ、と。維摩詰の言わく、仏世尊有りて真の天眼を得たり。常に三昧に在りて悉く諸仏の国を見、二相を以てせず、と。是に於て厳浄の梵王及び其の眷属五百の梵天、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発し、維摩詰の足を礼し已りて、忽然として現ぜず。故に我、彼に詣りて疾を問うに任せず。
現代語訳
仏は摩訶迦旃延に言われました。あなたは行って、維摩詰を見舞いなさい。迦旃延は仏に申し上げました。世尊、私は彼のもとへ行って見舞うことに堪えません。なぜなら、思い起こせば、昔、仏が比丘たちのために教えの要点を略して説かれたとき、私はそのあとで、その意味を詳しく述べ、無常の意味、苦の意味、空の意味、無我の意味、寂滅の意味を語ったからです。そのとき維摩詰が来て私にこう言いました。迦旃延さん、生じたり滅したりする心の動きで、真実のありようの法を説いてはいけません。迦旃延さん、諸法は究極において生ずることも滅することもありません。これが無常の意味です。五つの身心の集まりを深く見通せば空であって、そこに起こるものはありません。これが苦の意味です。諸法は究極においてそれ自体の実体がありません。これが空の意味です。我と無我は二つではありません。これが無我の意味です。法は本来燃えたことがなく、今も滅することがありません。これが寂滅の意味です。この法を説いたとき、そこにいた比丘たちは、心に解脱を得ました。ですから私は、彼のもとへ行って見舞うことに堪えないのです。 仏は阿那律に言われました。あなたは行って、維摩詰を見舞いなさい。阿那律は仏に申し上げました。世尊、私は彼のもとへ行って見舞うことに堪えません。なぜなら、思い起こせば、私が昔、ある所で経行していたとき、厳浄という名の梵王が、一万の梵天とともに清らかな光を放って私のところに来て、頭を下げて礼拝し、私に尋ねたからです。阿那律さん、あなたの天眼はどれくらいまで見えますか。私はすぐに答えました。あなたがた、私はこの釈迦牟尼仏の国土の三千大千世界を、手のひらの上の菴摩勒の実を見るように見ています。そのとき維摩詰が来て私にこう言いました。阿那律さん、天眼の見るものは、はたらきのある相でしょうか、それともはたらきのない相でしょうか。もしはたらきのある相なら、外道の五神通と同じです。もしはたらきのない相なら、それは無為であって、見ることがあるはずがありません。世尊、私はそのとき黙ってしまいました。梵天たちはその言葉を聞いて、いまだかつてない思いを得て、すぐに礼拝して尋ねました。世の中で、誰が真の天眼を持っているのでしょうか。維摩詰は言いました。仏世尊が真の天眼を得ておられます。常に三昧にあって、すべての諸仏の国を見て、二つの相に分けて見ることがありません。そこで厳浄の梵王とその眷属の五百の梵天は、皆、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こし、維摩詰の足を礼拝して、たちまち姿を消しました。ですから私は、彼のもとへ行って見舞うことに堪えないのです。
解説

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