うひ山ぶみ / 注[ツ]語釈は緊要にあらず
こは學者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出來がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古學の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの哥文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし、からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、學問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、晝夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、
新字:こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古学の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし、からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、
書き下し
こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古学の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし、からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、
現代語訳
これは学者の誰もがまず知りたがることであるが、これにそれほど深く心を用いるべきではない。これはおおかた良い考えは出てきにくいものであって、まずはどういうことかとも知りがたいわざであるが、強いて知らなくても事欠くことはなく、知ってもそれほど益はない。だからさまざまな言葉は、そう言う本来の意味を考えるよりは、古人の用いた所をよく考えて、これこれの言葉はこれこれの意味に用いたということを、よく明らかに知ることを要とすべきである。言葉の用いられた意味を知らなくては、その所の文意が分かりにくく、また自分で物を書くにも言葉の用い方を誤ることになる。ところが今の世の古学の人々は、ひたすらそう言う本来の意味を知ることばかりを心がけて、用いる意味をいい加減にするので、書物をも解釈し誤り、自分の歌や文も、言葉の意味や用い方が違って、とんでもない誤りが多いのである。『からぶみをもまじへよむべし』について。漢籍を見るのも学問のために益が多い。大和魂さえよく固まって動くことがなければ、昼夜漢籍ばかり読んでも、それに惑わされる心配はないのである。しかしながら世の人は、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
うひ山ぶみ・注[ネ]からぶみをもまじへよむべしとかく倭魂かたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし、古書の注釈を作らんと云々、書をよむに、たゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限リあるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也、されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて学問に大いに益あること也、是は物の注釈のみにもかぎらず、何事にもせよ、著述をこゝろがくべき也、
-
うひ山ぶみ・注[タ]其末の事は、一々さとし教るに及ばず此こゝろをふと思ひよりてよめる歌、筆のついでに、「とる手火も今はなにせむ夜は明てほがらほがらと道見えゆくを」、ひろくも見るべく又云々、博識とかいひて、随分ひろく見るも、よろしきことなれども、さては緊要の書を見ることの、おのづからおろそかになる物なれば、あながちに広きをよきこととのみもすべからず、その同じ力を、緊要の書に用るもよろしかるべし、又これかれにひろく心を分るは、たがひに相たすくることもあり、又たがひに害となることもあり、これらの子細をよくはからふべき也、五十音のとりさばき云々、これはいはゆる仮字反シの法、音の竪横の通用の事、言の延つゞめの例などにつきて、古語を解キ明らむるに、要用のこと也、かならずはじめより心がくべし、仮字づかひは、古ヘのをいふ、近世風の歌よみのかなづかひは、中昔よりの事にて、古書にあはず、語釈は緊要にあらず、語釈とは、もろもろの言の、然云フ本の意を考へて、釈をいふ、たとへば天といふはいかなること、地といふはいかなることと、釈くたぐひ也、
-
うひ山ぶみ・第三十八段さて又五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ズこゝろがくべきわざ也、語釈は緊要にあらず、
-
うひ山ぶみ・注[ヘ]初学のともがらは宣長が著したるいはざらんは、かへりて初学のために、忠実ならざれば、あしくいはむ人には、いかにもいはれんかし、第一に漢意儒意を云々、おのれ何につけても、ひたすら此事をいふは、ゆゑなくみだりに、これをにくみてにはあらず、大きに故ありていふ也、その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大にこれを誤りしたゝめたるは、いかなるゆゑぞと尋ぬれば、みな此漢意に心のまどはされ居て、それに妨げらるゝが故也、これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染マ着てある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近きころは、道をとくに、儒意をまじふることの、わろきをさとりて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるゝことあたはずして、その説ところ、畢竟は漢意におつるなり、かくのごとくなる故に、道をしるの要、まづこれを清くのぞき去ルにありとはいふ也、これを清くのぞきさらでは道は得がたかるべし、初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固くすべきことは、
-
うひ山ぶみ・注[ヘ]初学のともがらは宣長が著したる返て大に道を害することのみ也、されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし、さりとて又初学のともがら、いかほど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく会得しがたかるべし、こゝにわが県居ノ大人は、世の学者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし教へて、盛ンに古学を唱へ玉ひしかども、其力を万葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず、されば道のすぢは、此大人の説も、なほたらはぬこと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也、さる故に下には、古事記伝をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり、かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、
-
うひ山ぶみ・第三十九段さて又漢籍をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝徳天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、万の事、かの国の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの国ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る