うひ山ぶみ / 第三十八段
さて又五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ズこゝろがくべきわざ也、語釋は緊要にあらず、
新字:さて又五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ズこゝろがくべきわざ也、語釈は緊要にあらず、
書き下し
さて又五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ズこゝろがくべきわざ也、語釈は緊要にあらず、
現代語訳
さてまた五十音の扱い、仮名遣いなどは、必ず心がけるべきわざである。語釈は重要ではない。
解説
二つの指示が並ぶ。音韻と仮名遣いは必ずやれ、語源の詮索は重要でない、と。奥の注によれば、語釈とは「天とはどういうことか、地とはどういうことか」と語のもとの意味を考えることで、学者は誰でも知りたがるが、よい考えは出にくく、知らなくても差し支えなく、知ってもさして益がないという。それより古人がその語をどう用いたかをよく調べ、この語はこの意味で使われたと明らかにするほうが大事だと述べる。語の起源ではなく用例に当たれという主張で、現代の言語学の立場に近い。もっともらしい語源説に飛びつく危うさは、今も変わらない。
この章句が説くこと
仮名遣い五十音語釈語源用例基礎
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論語・八佾篇子夏問いて曰く、「巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の謂ぞや」と。子曰く、「絵事は素より後にす」と。曰く、「礼は後か」と。子曰く、「予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ」と。
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伝習録・陸澄録問う、「知識、長進せず。如何」と。先生曰く、「学を為すには須らく本原有るべし。須らく本原の上より力を用い、漸漸として『科に盈ちて進む』べし。仙家の嬰児を説くも、亦た善き譬えなり。嬰児は母の腹に在る時、只だ是れ純気なり。何の知識か有らん。胎を出でて後、方に始めて能く啼く。既にして後に能く笑う。又た既にして後に能く其の父母兄弟を認識す。又た既にして後に能く立ち、能く行き、能く持し、能く負う。卒に乃ち天下の事、能くすべからざる無し。皆な是れ精気日々に足れば、則ち筋力日々に強く、聡明日々に開くなり。是れ胎を出づる日に便ち講求推尋し得来たるに非ず。故に須らく個の本原有るべし。聖人の『天地を位せしめ、万物を育す』るに到るも、也只だ『喜怒哀楽未発の中』の上より養い来たる。後儒は格物の説に明らかならず、聖人の知らざる無く、能くせざる無きを見て、便ち初めて手を下す時に於て講求し尽くさんと欲す。豈に此の理有らんや」と。又た曰く、「志を立て功を用うるは、樹を種うるが如く然り。方に其の根芽なるや、猶お未だ有らず。其の幹有るに及びても、尚お未だ枝有らず。枝ありて後に葉あり、葉ありて後に花実あり。初め根を種うる時は、只管(ひたす)ら栽培灌漑せよ。枝の想を作す勿かれ。葉の想を作す勿かれ。花の想を作す勿かれ。実の想を作す勿かれ。懸想して何の益かあらん。但だ栽培の功を忘れずんば、枝・葉・花・実の有ること無きを怕(おそ)れんや」と。