「うけい」は、漢字で「誓約」「宇気比」などと書きます。神に誓いを立てたうえで事を行い、その結果によって神の意思や、ことの真偽を知ろうとする古代の作法です。「こうなれば正しい、こうなれば誤り」と先に言い立ててから占う、言葉の力を借りた判定法と言ってもよいでしょう。
いちばん有名なうけいは、『古事記』上巻の、天照大御神と弟の須佐之男命のあいだで行われたものです。姉は弟が国を奪いに来たと疑い、弟は邪心はないと言う。言葉では決着がつかないので、二柱は天の安河をはさんで向かい合い、うけいで白黒をつけることにします。
ところが原文を読むと、このうけいには大きな穴があります。何が出たら勝ちなのかが、先に決められていないのです。その穴から何が起きたのか。この記事では、うけいの場面を原文で順に読み、上司と部下、疑う側と疑われる側の関係として考えます。統治の芯にある「しらす」については日本の帝王学とはで扱いました。
疑いから始まる――武装して待つ天照大御神
父の伊邪那岐命に追放された須佐之男命は、去る前に姉へ挨拶しようと天に上ります。その勢いで山も川も鳴り動き、国土が揺れました。
ここに天照大御神聞き驚きて詔りたまはく、「我がなせの命の上り来る由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲ふにこそあれ」
天照大御神はこれを聞いて驚き、「私の弟が上ってくるのは、きっと善い心からではない。私の国を奪おうと思っているのだろう」と言います。そして髪を男の形に結い直し、玉飾りを巻き、千本の矢を入れた靫を背負い、弓を振り立て、庭を蹴散らして雄叫びを上げ、待ち構えました。
疑いは、相手の行動そのものより、相手の勢いから生まれています。山川が鳴り動くほどの来訪を見れば、守る側が身構えるのは当然です。ただ、ここで天照大御神は、武装しながらも、いきなり矢を射かけてはいません。「何故上り来つる」――なぜ上って来たのか、とまず問うています。
組織でも、部下や新しく来た人の勢いが強いとき、上に立つ者は身構えます。それ自体は悪いことではありません。守るべきものがあるからです。大事なのは、身構えたまま、まず問うことです。
言葉では決着しない――「何して知らむ」
須佐之男命は「邪な心はありません。母の国へ行きたいと泣いて追放されたので、そのわけを申し上げに来ただけです」と答えます。それでも姉は納得しません。
ここに天照大御神詔りたまはく、「然らば汝の心の清く明きは何して知らむ」。ここに速須佐之男命答へ白さく、「各うけひて子を生まむ」。(宇より以下三字は音を以てす。下これに効へ)故ここに各天安河を中に置きてうけふ時、
「それなら、あなたの心が清く明るいことを、何によって知ればよいのか」。須佐之男命は「それぞれうけいをして子を生みましょう」と答え、二柱は天の安河を間に置いて、うけいを始めます。
この問いは、上司と部下のあいだで、毎日のように繰り返されているものです。「やる気はあります」「任せてください」と言われても、言葉だけでは信じきれない。かといって、疑い続けても何も進まない。だから、言葉の外に、双方が従う手続きを置く。うけいとは、水掛け論を終わらせるための仕組みでした。
見落とせないのは、うけいを行ったのが須佐之男命だけではなく、疑っている天照大御神も同じように行ったことです。天の安河をはさんで、二柱は対等に向かい合っています。疑う側も、同じ土俵に立ち、結果を引き受けることになるのです。
互いの物から生む――剣と玉の交換
うけいの手順は独特です。天照大御神は弟の剣を受け取り、三つに折って天の真名井の水ですすぎ、噛み砕いて吹き出す。その息の霧から三柱の女神が生まれます。須佐之男命は姉の玉飾りを受け取り、同じようにして五柱の男神を生みます。そして天照大御神は、生まれた子の帰属をこう定めました。
「この後に生れませる五柱の男子は、物実我が物に因りて成りませり。故、自ら吾が子ぞ。先に生れませる三柱の女子は、物実汝が物に因りて成りませり。故、乃ち汝が子ぞ」
後に生まれた五柱の男神は、元になった物(物実)が私の物だから、私の子である。先に生まれた三柱の女神は、元が汝の物だから、汝の子である――。
自分の物を相手に渡し、相手の手で生ませる。成果は、手を動かした者ではなく、元手を出した者に帰属する。この基準そのものは明快です。仕事を任せたときの成果が誰のものか、失敗の責任が誰にあるかを、あらかじめはっきりさせておくことが、のちの争いを防ぐという点は、いまの組織にもそのまま当てはまります。
このとき生まれた三柱の女神は、宗像の三つの宮に祀られる神として、いまも信仰されています。
基準は後から言われた――「自ら我勝ちぬ」
さて、ここからがこの場面の核心です。帰属は決まりました。しかし、うけいの目的は、須佐之男命の心が清いかどうかを知ることだったはずです。では、何が生まれたら清いのか。『古事記』の原文を読み返しても、その取り決めはどこにも書かれていません。
そこへ須佐之男命が言い出します。
「我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女を得つ。此れに因りて言はば、自ら我勝ちぬ」と云ひて、勝ちさびに(この二字は音を以てす)、天照大御神の営田の阿(この阿の字は音を以てす)を離ち、その溝を埋め、亦その大嘗を聞こしめす殿に屎まり(この二字は音を以てす)散らしき。
「私の心が清く明るいから、私の生んだ子はたおやかな女の子だった。この結果から言えば、当然私の勝ちだ」。そう言って勝ちに乗じ、天照大御神の田の畔を壊し、溝を埋め、新嘗の祭りをする御殿に汚物をまき散らした――。
じつは同じ話を伝える『日本書紀』の本文では、うけいの前に「男が生まれたら清い心」と取り決めています。『古事記』にはそれが無い。だから結果が出たあとで、勝った側が自分に都合のよい読み方を言い立てることができた。「勝ちさび」――勝ちに乗じた振る舞い――は、判定の基準を先に決めておかなかったことから始まっています。
これは、成果の評価で揉める組織の典型そのものです。目標と評価の物差しを先に決めずに仕事を任せると、結果が出てから「これは成功だ」「いや失敗だ」と、言い分のぶつけ合いになります。そして声の大きい側の解釈が通る。うけいの手続きは整っていたのに、いちばん肝心な「何をもって良しとするか」が抜けていたのです。
かばう姉――「咎めず」の功と罪
弟の乱暴に対して、天照大御神はどう応じたか。原文はこうです。
故、然為れども、天照大御神は咎めずて告りたまはく、「屎なすは、酔ひて吐き散らすとこそ(この三字は音を以てす)、我がなせの命かくしつらめ。
「汚物のようなものは、酔って吐き散らしたのでしょう。私の弟がそうしたのでしょう」。天照大御神は弟をとがめず、かばいました。田の畔を壊したことについても、「土地をもったいないと思ってしたのでしょう」と言い繕います。
うけいの結果を受け入れた以上、弟を信じると決めた――そう読むこともできます。疑ったのは自分であり、手続きを経た以上、その結果に従う。上に立つ者として筋の通った態度です。
しかし、話はそこで終わりませんでした。弟の乱暴は「なほその悪(あ)しき態(わざ)止まずて転(うたて)あり。」――なおやまず、いっそうひどくなります。そして機織りの女が命を落とし、天照大御神は岩屋に籠もってしまう。その後の顛末は天の岩戸の物語で読みました。
結果を受け入れて任せることと、目の前の無法を見逃すことは、別のことです。任せると決めたあとでも、越えてはならない線を越えたときには、その場で止めなければならない。天照大御神の寛容は、弟を守るつもりで、世界を闇に沈めることになりました。
疑いの根にあるもの――十七条憲法 第十条
うけいの物語を読むと、疑う側にも疑われる側にも、それぞれの言い分があることが分かります。十七条憲法の第十条は、その状態をこう言い当てています。
彼(かれ)是(ぜ)なれば則(すなわ)ち我(われ)非(ひ)なり、我(われ)是(ぜ)なれば則(すなわ)ち彼(かれ)非(ひ)なり。我必(かなら)ずしも聖(ひじり)に非(あら)ず、彼必(かなら)ずしも愚(ぐ)に非(あら)ず。共(とも)に是(こ)れ凡夫(ぼんぷ)のみ。
相手が正しければ自分が間違っており、自分が正しければ相手が間違っている。自分が必ずしも聖人なのではなく、相手が必ずしも愚か者なのでもない。ともにただの凡夫にすぎない――。
疑う側が「自分は正しく、相手は怪しい」と決めてかかると、どんな手続きを置いても、結果は自分に都合よく読まれます。逆もまた同じです。うけいが本当に働くのは、双方が「自分も凡夫だ」と認めたうえで、先に決めた物差しに従うときだけです。
出典:十七条憲法 第十条
うけいに学ぶ、任せる側の三つの覚悟
うけいの場面を、任せる側の心得としてまとめると、次の三つになります。
一つめは、疑うなら、自分も同じ土俵に立つことです。天照大御神は、疑いながらも自分の玉を差し出し、自分の手でも子を生みました。部下に「結果を出してみろ」と言うだけでなく、どういう結果なら信じるのかを、自分の側からも差し出す覚悟が要ります。
二つめは、物差しは先に決めることです。何をもって成功とするかを決めずに任せれば、結果が出たあとの解釈で争うことになります。『古事記』のうけいは、そのいちばん古い失敗例として読めます。
三つめは、任せたあとでも、越えてはならない線は守らせることです。信じることと、何をしても許すことは違います。かばい続けた結果、岩戸に籠もることになったのは、かばった側でした。
疑いを決着させる作法としてのうけいは、手続きの形よりも、その前後の覚悟のほうに学ぶところが多い物語です。
日本の帝王学のシリーズは、このあと後継者の決め方、古事記の序文へと続きます。
