会社に新しい仕組みを入れたのに、現場が動かない。マニュアルは整え、ツールも入れ、会議の場も作った。それなのに数か月たつと、誰も使わなくなっている。多くの会社で見られる悩みです。

こういうとき、多くの社長は「社員の意識が低いからだ」「もっと徹底させなければ」と考えます。ルールを増やし、チェックを厳しくする。ところが、締め付けるほど現場は静かに離れていきます。

この記事では、原因を「仕組みの出来」ではなく「仕組みの作られ方」に置いて、老子・論語・孟子・二宮翁夜話の4つの古典から読み直します。ここでいう「仕組み」とは、業務の手順、ルール、会議の進め方、評価の基準など、人が動くための決まりごと全般のことです。それを現場が「押しつけ」と感じるかどうかは、中身よりも、誰がどう決めたかで分かれることが多いのです。

仕組みは悪くないのに、なぜ現場は動かないのか

この問題に長く向き合ってきた人に、この記事の監修者である清水直樹がいます。清水はマイケル・E・ガーバー氏の理論を日本に広める活動を続ける中で、その理論だけでは会社がうまく機能しないケースを見てきました。ガーバー氏の理論は、経営トップが仕組みを決め、現場に守らせるという考えで成り立っています。ところが日本では、現場で働く人たちの質が高く、社長が方向を定めたうえで、社員自身が自分たちの仕事のやり方を作ったほうがうまくいく、というのが清水の見立てです。

清水自身、かつては原因を取り違えていたといいます。仕組みが機能しないのは、リーダーの人格が足りないからだ。周りから信頼され、尊敬される人でなければ、どんな仕組みも社員は協力してくれない。そう考えていました。理屈としては間違っていません。しかしこの立て方には副作用がありました。入口に「まず社長が立派であること」という条件を置くと、いちばん助けを必要としている、余裕のない社長ほど入口を通れないのです。

本当の原因は、もっと単純なところにありました。社長が仕組みを決めて上から入れていたので、現場から見れば押しつけにしか見えなかった。誰が作ったかが問題だったのです。社長が方向を定め、社員が自分たちの手で仕組みを作る。この順番に変えると、社長の人格を問う必要はなくなり、反発も起きなくなった、と清水は振り返っています。

古典には、この構図がずいぶん前から別の言葉で書かれています。順に見ていきましょう。

老子――最高のリーダーは、現場に「自分たちでやった」と言わせる

最初は、老子が語る理想のリーダー像です。

【書き下し】太上は、下之有るを知るのみ。其の次は、親しみて之を誉む。其の次は、之を畏る。其の次は、之を侮る。信足らざれば、信ぜられざること有り。悠として其れ言を貴べば、功成り事遂げて、百姓皆謂う、我れ自ら然りと。

出典:老子 第17章

老子はリーダーを4つの段階に分けています。いちばん上は、部下が「いることは知っている」程度の存在。その次が、親しまれ、褒められる存在。その次が、恐れられる存在。いちばん下が、侮られる存在です。

目を引くのは、親しまれ、褒められるリーダーが「最上」ではなく「二番手」に置かれている点です。部下から慕われる社長は、悪くありません。けれども老子は、そのさらに上があると言います。言葉を惜しんで多くを語らず、仕事が成し遂げられたとき、人々が「これは自分たちが自然にやったのだ」と言う状態です。

仕組みづくりに引き寄せて読むと、こうなります。社長が細かく決め、説明して回り、運用を見張るほど、その仕組みは「社長のもの」になります。成果が出ても「社長の仕組みのおかげ」で終わり、うまくいかなければ「社長が言うからやっただけ」になる。反対に、方向だけを示して、中身は現場が作ったのであれば、成果は「自分たちでやれた」という実感として残ります。冒頭の清水の気づき、「誰が作ったかが問題だった」と、ほぼ同じことを言っています。

なお、書き下しの「信足らざれば、信ぜられざること有り」は、上に立つ者の誠実さが足りなければ、信頼されないのは当然だ、という意味です。口数が少なければよいという話ではなく、信頼の土台があってはじめて、任せて黙っていられるということです。

孔子――規則で縛ると、「見つからなければいい」が増える

次は『論語』です。孔子は、人を導く方法を2通りに分けて比べました。

【書き下し】子曰く、之を道びくに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有り且つ格(いた)る。

出典:論語 為政篇

「政」は政治のことですが、会社に置き換えて読めます。規則を決め、破ったら罰する。この方法だと、人は「罰を免れる」ことに知恵を使い、恥を感じなくなる、と孔子は言います。一方、徳と礼で導けば、人は恥を知り、自分から正しいところへ向かう、と。

たとえば、報告のルールを増やしたとします。守らせるために、未提出者を一覧にして上に回す。すると現場では、報告書の体裁を整えることが仕事になり、中身は薄くなっていきます。「見つからなければいい」「出しておけば文句は言われない」という空気が生まれます。ルールが悪いのではなく、ルールが「罰を避けるためのもの」になったとき、現場は押しつけと受け取るのです。

では、どうすればよいか。論語の答えは、なぜそれが大切なのかという理由を伝え、相手が納得して自分から行動を選べるようにする、ということです。仕組みを作る段階から現場に入ってもらえば、理由は説明するまでもなく、作った本人たちが知っています。

なお、法で人を動かす立場を突き詰めて論じたのが『韓非子』です。法と徳、どちらがどんな場面で効くのかという議論は、徳治と法治――理念と仕組みはどちらが先かで扱います。韓非子そのものの言葉は韓非子の名言にまとめています。

命令が通らないとき、まず疑うのは部下か、自分か

同じ『論語』から、もう一つ。

【書き下し】子曰く、其の身正しければ、令せずして行わる。其の身正しからざれば、令すと雖も従われず。

出典:論語 子路篇

「其の身正しければ、令せずして行わる」。自分が正しければ、命令しなくても物事は進む。自分が正しくなければ、命令しても従われない。命令が通るかどうかは、命じる側の状態で決まる、という原則です。

指示が通らないとき、多くの人は、伝え方が悪かったのか、部下の資質が足りないのかを疑います。孔子はそこを飛ばして、原因を自分の側に置きました。ここは、仕組みの導入でもそのまま当てはまります。

たとえば、全員に守らせると決めた承認のルールを、社長だけが「急ぎだから」と飛ばす。社員にだけ求める報告を、社長自身はしていない。こうした例外が一つあるだけで、現場にとってその仕組みは「自分たちを縛るためのもの」になります。命令には、説明も、監督も、再確認も要ります。命じなくても行われるなら、その手間が全部いらなくなる。ルールを増やす前に、そのルールを自分が守れているかを確かめるほうが安上がりです。

「あなたが正しくなりなさい」は正論。ただし、入口に置いてはいけない

さらにもう一つ、『論語』の問答です。

【書き下し】季康子、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、「政とは、正なり。子帥いるに正を以てせば、孰か敢えて正しからざらん。」

出典:論語 顔淵篇

季康子は、魯の国で実権を握る家老でした。その人に「政治はどうすればよいか」と問われて、孔子は「政とは、正なり」と答えます。あなたが率先して正しくあれば、誰が正しくないでいられようか、と。政治の方法を聞かれて、あなた自身が正しくなることだと答えたのですから、かなり直接的です。上に立つ者の振る舞いが、最も強い施策だという考えです。

この言葉は、原則としては正しいと思います。ただ、ここで一つ気をつけたいことがあります。冒頭で触れた清水の経験が、まさにこの点に重なるからです。リーダーが人として信頼されなければ、仕組みはうまくいかない。理屈としては間違っていないのですが、「まず社長が立派になること」を仕組みづくりの入口の条件にすると、助けが必要な社長ほど入口を通れなくなります。

孔子の言葉は、正しさを迫る言葉というより、上に立つ者の言動は下に伝わる、という観察として受け取るのがよいと考えます。入口に置くのは、「社長が立派になる」ではなく、「社長が方向を定め、社員が自分たちで仕組みを作る」という順番です。社長の人格を、入口の条件から外す。そのうえで、前の節で見たような例外を作らない、という最低限のところから始めれば足ります。

孟子――ルールそのものが悪いのではない

ここまで読むと、「仕組みやルールは、ないほうがよいのか」と思うかもしれません。そうではありません。『孟子』はこう言います。

【書き下し】離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成すこと能わず。

出典:孟子 離婁章句上

離婁は目の良さで、公輸子は腕の良さで知られた伝説の人物です。そんな名人でも、コンパスと定規がなければ正確な円や四角は描けない、と孟子は言います。

同じ段には、こうも出てきます。

【書き下し】『徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て自ら行わるること能わず。』

出典:孟子 離婁章句上

善意だけでは政治は成り立たず、制度だけでも自分で動き出しはしない。どちらか片方では足りない、という意味です。会社にあてはめれば、社長の熱意や社員の善意だけで回る組織は長続きしません。かといって、手順書やルールだけを置いても、それは自動では動きません。

押しつけの問題は、仕組みを持つか持たないかではありません。誰が作り、誰が動かすのか、という点にあります。コンパスや定規は必要です。ただ、それを現場の人が自分の手で選び、作った道具であるほうが、使われます。

二宮尊徳――仕組みは放っておけば廃れる。だから作り手が手入れをする

最後は、江戸後期の農村復興の実践家・二宮尊徳の語録『二宮翁夜話』です。

【原文】夫れ人道は人造なり。されば自然に行はるる処の天理とは格別なり。

【原文】人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る。故に天道の自然に任すれば、忽に廃れて行はれず。

出典:二宮翁夜話 巻之一

尊徳は、人の道は、自然に行われる天の理とは別物で、人が造ったものだと言います。春に生じ秋に枯れる天理は放っておいても巡りますが、人の道は、日夜、人が力を尽くして手入れをしなければ、たちまち廃れてしまう。

この一条の主題は、欲を抑えて身の丈の内で暮らす「分度」の大切さで、仕組みづくりの話ではありません。それでも、「人が造ったものは、人が手入れをしないと廃れる」という認識は、会社の仕組みにそのまま当てはまります。

仕組みは、入れた日がゴールではありません。業務は変わり、人も入れ替わり、使われないルールは廃れていきます。日々の手入れが要るのなら、手入れをする人にとって、その仕組みが「自分たちが造ったもの」でなければ続きません。上から入れられた仕組みは、手入れをする理由が現場にないのです。ここは本記事の読みですが、尊徳の言う「人造」の重みは、まさにここにあると考えます。

結び――社長は方向を示し、仕組みは現場が作る

ここまでの古典を並べると、「押しつけ」を避けるための順番が見えてきます。

  1. 社長は、何のために、どこへ向かうのかという方向を示す。細部は決めない(老子)
  2. 手順やルールは、現場が自分たちで作る。罰ではなく、理由で動く形にする(孔子)
  3. 作った後の手入れも、現場が続ける。社長は、自分もその仕組みの例外にならない(孔子・尊徳)

その際、仕組みそのものは捨てずに持つ。善意と制度の両方がそろってはじめて物事は動く、と孟子は言っています。

全部を一度にやる必要はありません。まずは、いま現場で使われていない仕組みを一つ選び、「どうすれば使われるか」を、作った人ではなく使う人たちに聞いてみる。それが最初の一歩です。老子の言う「功成り事遂げて、百姓皆謂う、我れ自ら然りと」の状態は、その先にあります。

清水が提唱する「仕組み経営」は、東洋思想の知恵と仕組み化の方法を統合した経営の考え方で、普通の人が普通に働いて成果を上げ、幸せに生きられる会社を日本中に増やすことを目的としています。

あわせて読みたい:部下が育たない――東洋古典の処方箋/徳治と法治――理念と仕組みはどちらが先か/組織が空中分解する前の兆候