玉勝間 / 十三の巻 又宝劒の事
百練鈔に、文治三年七月廿日己未、奉幣七社、依寶劔御祈也。今日、被遺勅使於長門國、且被祈謝、爲令搜索也。神祇大祐ト部兼衡、大藏少輔安倍泰成等爲使、前安藝守佐伯景弘、去比下向。景弘、合戰之時在彼國、存知寶劔沈沒之所云云。
新字:百練鈔に、文治三年七月廿日己未、奉幣七社、依宝剣御祈也。今日、被遺勅使於長門国、且被祈謝、為令捜索也。神祇大祐ト部兼衡、大蔵少輔安倍泰成等為使、前安芸守佐伯景弘、去比下向。景弘、合戦之時在彼国、存知宝剣沈没之所云云。
書き下し
百練抄に、文治三年七月廿日己未、七社に奉幣す、宝剣の御祈に依るなり。今日、勅使を長門国に遣わさる、且つは祈謝せられ、捜索せしめんが為なり。神祇大祐卜部兼衡、大蔵少輔安倍泰成等使と為る、前安芸守佐伯景弘、去る比下向す。景弘、合戦の時彼の国に在り、賓剣沈没の所を存知すと云云。
現代語訳
『百練抄』に、「文治三年七月二十日己未、七つの社に幣帛を奉った。宝剣のための御祈りによるのである。今日、勅使を長門国に遣わされた。祈りによって謝するとともに、捜索させるためである。神祇大祐卜部兼衡・大蔵少輔安倍泰成らが使いとなった。前安芸守佐伯景弘は先ごろ下向している。景弘は合戦の時にその国にいて、宝剣の沈んだ場所を知っているという」とある。
解説
前の段の竜宮説話と対照させるように、朝廷の記録『百練抄』から、宝剣を実際に捜索させた記事を写した段である。壇ノ浦の戦いから二年後の文治三年(1187)、朝廷は七社に祈りを捧げ、勅使を長門に遣わして宝剣を探させた。案内役とされた佐伯景弘は厳島神社の神主で、平家と深い関わりを持ち、合戦の時に現地にいて沈んだ場所を知っているとされた。宣長は論評を加えていないが、竜宮の大蛇が剣を返さないと告げたという奇怪な話の一方で、朝廷は現実的な手段で捜索を続けていたことを、記録によって示している。物語と記録を並べることで、どちらが事実に近いかを読者自身に考えさせる構成になっている。
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