玉勝間 / 十一の巻 四足の物供御に備へずと云ふ事
四足は總て不備之、然を吉野ノ天子後村上院は、四足をも憚らせ給はず、聞シ召しけるとかや。されば御合體の後、男山まで御幸ならせ給ひけれども、又吉野の奧へ還幸ならせ給ひ、都へは、終に一日片時も入らせ給はず。これ併ヲ天照大神の神慮に違はせ給ひける故なりと、人みな申合ひけると。これも同書に云へり。
新字:四足は総て不備之、然を吉野ノ天子後村上院は、四足をも憚らせ給はず、聞シ召しけるとかや。されば御合体の後、男山まで御幸ならせ給ひけれども、又吉野の奥へ還幸ならせ給ひ、都へは、終に一日片時も入らせ給はず。これ併ヲ天照大神の神慮に違はせ給ひける故なりと、人みな申合ひけると。これも同書に云へり。
書き下し
四足はすべてこれを備えず、然るを吉野の天子後村上院は、四足をも憚らせ給わず、聞こし召しけるとかや。されば御合体の後、男山まで御幸ならせ給いけれども、また吉野の奥へ還幸ならせ給い、都へは、ついに一日片時も入らせ給わず。これしかしながら天照大神の神慮に違わせ給いける故なりと、人みな申し合いけると。これも同書に云えり。
現代語訳
四つ足の獣の肉は、すべて天皇の食膳には供えない。ところが吉野の天子、後村上院は、四つ足も憚られずに召し上がったとかいう。だから南北朝の御合体の後、男山(石清水八幡)まで行幸なさったけれども、また吉野の奥へお帰りになり、都へはついに一日片時もお入りにならなかった。これはひとえに天照大神の御心に背かれたためであると、人はみな言い合った、という。これも同じ書に言っている。
解説
天皇の食膳には四つ足の獣肉を供えないという禁忌と、それを破ったとされる南朝の後村上天皇の話を『海人藻芥』から引いた段である。後村上天皇は正平の一統で一時京都奪回をはかり、石清水八幡の男山まで進んだが、結局都に入れずに吉野・賀名生へ退いた。人々はそれを、獣肉を食べて天照大神の神慮に背いた報いだと噂したという。天武天皇以来たびたび出された肉食禁止の令や、仏教の殺生戒、神事の穢れの観念が重なって、宮中では獣肉を避ける習いが固まっていた。宣長はこの話を評していないが、政治の成り行きを食の禁忌で説明する当時の人々の心性がよく表れている。出来事に理由を求めずにいられない人の心を映す記事である。
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