玉勝間 / 十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文
かの大船のゆくらゆくらとも、ゆたのゆたにとも云へると、同じさまなり。なほ思ふに、船と云ふ名も、ふならふならと行く故にもや有らむ。さて霜黑葛は、序にて、かく續きたる意は、霜にあへる黑葛の、しをれて、へならへならとしたる由か。又黑葛の一種の名ならば、其蔓のへならへならとしたる物なる故か。猶よく考ふべし。毛々曾々呂々爾は、俗言にそろそろと云ふ事なるべし。そろそろは、此もそろもそろの、毛を省ける言なるべし。さて河船之は序にて、海をゆく船にくらぶれば、川の船は、しづかに行意にて、續きたるなるべし。さて上の閉那々々と、これとは、引來る海路の間のさまなり。國々來々は、(一本にここにのみ、此上に、國國爾の三字あるは、衍なり。又一本に、由々良々と書るも誤なり)誤あるべし。これも亦いと心得がたきを、例のしひて云はば、來ノ字は、寄の誤にて、國寄なりけむを、上の文にならひて、國々寄々と、誤りて重ねたるにや。さて又下の文よりまがひて、寄を來に誤りたるなり。さて國寄とは、かの新羅の御崎の餘れる地を、寄來るを云へるなり。縫國とは、引よせ來て、出雲ノ國へ縫合せたる地を云ふ。
新字:かの大船のゆくらゆくらとも、ゆたのゆたにとも云へると、同じさまなり。なほ思ふに、船と云ふ名も、ふならふならと行く故にもや有らむ。さて霜黒葛は、序にて、かく続きたる意は、霜にあへる黒葛の、しをれて、へならへならとしたる由か。又黒葛の一種の名ならば、其蔓のへならへならとしたる物なる故か。猶よく考ふべし。毛々曽々呂々爾は、俗言にそろそろと云ふ事なるべし。そろそろは、此もそろもそろの、毛を省ける言なるべし。さて河船之は序にて、海をゆく船にくらぶれば、川の船は、しづかに行意にて、続きたるなるべし。さて上の閉那々々と、これとは、引来る海路の間のさまなり。国々来々は、(一本にここにのみ、此上に、国国爾の三字あるは、衍なり。又一本に、由々良々と書るも誤なり)誤あるべし。これも亦いと心得がたきを、例のしひて云はば、来ノ字は、寄の誤にて、国寄なりけむを、上の文にならひて、国々寄々と、誤りて重ねたるにや。さて又下の文よりまがひて、寄を来に誤りたるなり。さて国寄とは、かの新羅の御崎の余れる地を、寄来るを云へるなり。縫国とは、引よせ来て、出雲ノ国へ縫合せたる地を云ふ。
書き下し
かの大船のゆくらゆくらとも、ゆたのゆたにとも云えると、同じさまなり。なお思うに、船と云う名も、ふならふならと行く故にもや有らむ。さて霜黒葛は、序にて、かく続きたる意は、霜にあえる黒葛の、しおれて、へならへならとしたる由か。また黒葛の一種の名ならば、その蔓のへならへならとしたる物なる故か。なおよく考うべし。毛々曾々呂々爾は、俗言にそろそろと云う事なるべし。そろそろは、このもそろもそろの、もを省ける言なるべし。さて河船之は序にて、海をゆく船にくらぶれば、川の船は、しずかに行く意にて、続きたるなるべし。さて上の閉那々々と、これとは、引き来る海路の間のさまなり。国々来々は、(一本にここにのみ、この上に、国国爾の三字あるは、衍なり。また一本に、由々良々と書けるも誤なり)誤あるべし。これもまたいと心得がたきを、例のしいて云わば、来の字は、寄の誤にて、国寄なりけむを、上の文にならいて、国々寄々と、誤りて重ねたるにや。さてまた下の文よりまがいて、寄を来に誤りたるなり。さて国寄とは、かの新羅の御崎の余れる地を、寄せ来るを云えるなり。縫国とは、引きよせ来て、出雲の国へ縫い合わせたる地を云う。
現代語訳
あの「大船のゆくらゆくら」とも「ゆたのゆたに」とも言っているのと、同じようすである。さらに思うに、「ふね(船)」という名も、「ふならふなら」と行くからではなかろうか。さて「霜黒葛」は序であって、このように続く意味は、霜に当たった黒葛がしおれて「へならへなら」としているからか。また黒葛の一種の名であるなら、その蔓が「へならへなら」としたものだからか。なおよく考えるべきである。「毛々曾々呂々爾」は、俗語で「そろそろ」と言うことであろう。「そろそろ」は、この「もそろもそろ」の「も」を省いた言葉であろう。さて「河船の」は序であって、海を行く船に比べれば、川の船は静かに行くという意味で続けたのであろう。さて上の「へなへな」と、これとは、国を引いて来る海路の途中のようすである。「国々来々」は(一本にここにだけ、この上に「国国爾」の三字があるのは衍字である。また一本に「由々良々」と書いてあるのも誤りである)誤りがあるだろう。これもまたたいへん理解しがたいが、例によって無理に言えば、「来」の字は「寄」の誤りで、「国寄(くによせ)」であったのを、上の文にならって「国々寄々」と誤って重ねたのか。そしてまた下の文から紛れて、「寄」を「来」に誤ったのである。さて「国寄」とは、あの新羅の岬の余った土地を寄せて来ることを言ったのである。「縫国(ぬえるくに)」とは、引き寄せて来て、出雲国へ縫い合わせた土地を言う。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文さて衝別とは、かの国の余れるところを、鉏を衝き入れて、分け取るを云う。波多須須支は、穂と云わむ序に云えるなり。穂振別は、屠り分けるなり。獣の肉などを切り分かつを、屠ると云うと、同じ言にて、古事記、崇神天皇の御段に、其の軍士を斬り波布理と有るも同じ。かの余りある地を、鉏もて切り分かつるを云うなり。三身之綱は、身の字は写し誤りなるべし。これを真龍は、舟の字の誤りとして、みな然改めたれど、いかがとおぼゆ。万葉四の巻に、三相に搓れる糸と有るは、二すじをより合わせたる上に、今一すじをより合わせたるにて、強き糸なり。また書紀の孝徳の御巻に、三絞之綱と有るも然なり。されば搓の意に借りて自と書けるを、誤れるか。また会の誤りにて、三合にても有るべし。打挂は、屠り分けたる地へうちかけて、海の上を引きよするなり。霜黒葛は、黒葛の一種の名か、はた霜の置きたるつづらを云えるか、定かならず。聞々耶々爾は、誤字なるべし。聞も耶もこの書の中に、仮字に用いたる例無し。こはいと心得がたきを、しいて試みに云わば、閉々那々爾を誤れるか、そは今の世の言に、へならへならとも、ふならふならとも云う事ある、閉と布とは通う音にて、同じ事なり。ここは海の上を浪にゆられて行くさまを云えるなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文かくいまだ成りととのわざるをもて、稚国とはのたまえるなるべし。将作縫とは、足らざるところを足して、縫い合わせて、広く作り成さむとなり。志羅紀乃三埼は、(埼の字一本に椅と有るは誤なり)新羅の国の地の東南の方の、海へつき出でたる御崎なり。国之余有耶云々は、かの御崎を、国の余りて広き地ありや如何がと、尋ね見れば、余れるところ有りとなり。童女胸鉏とは、鉏の形の、美女の胸の如く広く直く平らかなるを云うなるべし。万葉九の巻に、女のかたちのよきをほめて、胸別之広吾妹と有るも、胸の直く平らかなるを云えりと聞ゆればなり。大魚は鮪の類を云う。支太は、鰓なるべし、阿を略き、登を通わして支太とも云いけむ。さて鰓はつねには、支を濁り、登を清みて云えども、もとは支を清み登を濁りてぞ云いけむ。太は、古書に濁音の仮字に用いたる字なり。衝別は、漁人に聞けば、大魚を捕るには、その喉をねらいて、衝きてとると云えり。古歌に鮪つくと有る、これなり。されば衝を云わむ序に、大魚の鰓とは云えるなるべし。鰓は口のわきなれば、いささか違えるが如くなれど、喉は口の奥なれば、外より衝くところをば、さも云うべきなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文また出雲の郡に薗長三里云々、此れ則ち出雲と神門と二郡の堺なりと有るは、薗の長浜長さと有りけむが、長の字よりまがいて、長浜の二字の脱けたるにて、かの薗の松山と同所なるを、山は神門の郡に属き、浜は、出雲の郡に属けるにぞあらむ。北門とは、出雲の国の北面の海を云うなるべし。佐伎之国は、佐の字は、於の誤にて、隠岐の国にやあらむ、出雲より北の方にあたればなり。されどこはなお疑わし。そのよしは下に云うべし。所取与の与の字は、而の誤なり、上下なる例もて知るべし。自多久乃は、島根の郡に、多久の社また多久川あり。秋鹿の郡との堺なり。乃の字は、川の誤か、されど上の自去豆と有る下にも、この字有りて、去豆には川は見えざれば、ここも如何が有らむ。打絶与は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)与の字は、これも而の誤なり。狭田之国は、秋鹿の郡に、佐太川また佐太の水海など見ゆ、これなり。但しここは、秋鹿楯縫二郡の地を云えるなり。北門良波之国は、いまだ考え得ず。そもそも良理流礼呂を、言の頭に置ける例は無き事なれば、良の字は誤なるか。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文自去豆乃は、去豆は地の名なり、楯縫の郡に、許豆の社、許豆島、許豆浜など見えて、出雲と楯縫と二郡の堺なりと有り。乃は誤字なるべし。その字いまだ考え得ず。打絶而は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)堺をなして、限るを云う。八穂米は米の字は尒を誤れるなるべし。八百土にて、杵築の枕詞なり。支豆支乃御埼は、分けては今の世に日之御崎と云う処なれども、ここは楯縫の郡の堺までの地を、広く云えるなり。されば杵築の東の方までわたれる山をも、御崎山と云えり。加志は、和名抄の舟の具に、唐韻に云う、状舸は、舟を繋ぐ所以なり、漢語抄に云う、加之、と有る物にて、前漢書の地理志には、牂牁と書きて、註に、船を係ぐ代なりと有り。万葉の歌にも見えたり。かくてここに云えるは、縫い合わせたる国を、また離れゆかざらむために、繋ぎ堅め給えりし状舸なり。佐比売山は、飯石の郡に見ゆ。持引綱はかの国を、挽き来ませる綱なり。薗之長浜は、神門の郡に、即ち水海と大海との間に山有り、長さ廿二里云々、此は意美豆努命の、国引きましし時の綱なり、今俗人号けて薗の松山と云う云々、と見えたり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文但し出雲の国の大海の北の方には、隠岐の国の外には、国も島も在る事無ければ、上なる志羅紀の御崎に准うるに、もしくは上の佐伎之国も、この良波之国も、北の方なる異国の名にもや有らむ、なおよく考うべし。自宇波、(一本に、この下に縫の字あるは、衍なり。また上の自去豆と自多久との下には、乃の字あるを、ここにのみは、その字無し)この地の名は見えず。一本に、宇の字を、手と作るにつきて考うるに、手染なるべきか。島根の郡に手染の郷あり。すべてのさまをもて考うるに、ここは必ず上文の多久より東、下文の三穂之埼より西に有るべき所なれば、手染にて、地理もよくかなえり。打絶而は、打の字諸の本みな折と作れど、例によりて改めつ。闇見の国は、島根の郡に、久良弥の社また椋見の社見ゆ。ここはこれも、多久川より手染までの地を、広く云えるなり。高志は、越の国なり。都都乃三埼は、(一本には都乃三埼と有り、)さだかならず。和名抄に、能登の国羽咋の郡に、都知の郷、越後の国頸城の郡に、都宇の郷、神名帳に、越前の国敦賀の郡、また坂井の郡に、御前の神社などは有り、これらのうちにもや有らむ。なおよく尋ぬべし。三穂之埼は、島根の郡に見えて、東のはてなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文さて上の例どもによらば、この上にも、自某処打絶而と云う事の有るべきに、ここにのみその詞無きは、この三穂の崎は、東の限りは海なるが故なり。この下に是也と云う二字も有るべきに、無きは、ここには略きて、合わせて下に云えるなり。持引(持の字一本に接と有るは誤なり)夜見島は、島根郡のところに、〓伯耆国郡内夜見島と有る、これなり。固堅(固の字一本に固とあるは誤なり)火神岳は、この風土記の抄に、伯耆の国会見の郡の大山これなりと云えり。さも有るべし。それにつきて思うに、大山は、神名帳に、大神山神社と有れば、火の字は、大を誤れるにはあらざるか。抄は、天和のころ国の人岸崎時照と云えるが作れる物にて、三巻あるなり。是也は、上の三穂之埼、夜見島をも合わせて、一つに云えるなり。引訖(一本に訖の字を記と書けるは誤なり)御杖衝立而、意恵登詔故云意宇、意恵は、事に労きて苦しきを、休息う時の声なり。さて恵は、宇延のつづまりたる音にて、上に宇を帯ぶる故におのずから後に意宇とは成れるなるべし。さてこの臣津野の命の引き来て縫い作り坐せる、すべての地は、島根、秋鹿、楯縫、出雲の四郡にて、東より西へつらなれる地にして、そを西よりつぎつぎに物し給えるなり。
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