玉勝間 / 十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文
所以號意宇者、國引坐八束水臣津野命詔、八雲立出雲國者、狹布之堆國在哉、初國小所作、故將作縫詔而、栲衾志羅紀乃三埼矣、國之餘有耶見者、國之餘有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穗振別而、三身之綱打挂而、霜黑葛聞々耶々爾、河船之毛々曾々呂々爾、國々來々引來縫國者、自去豆乃打絕而、八穗米支豆支乃御埼也、此而堅立加志者、石見國與出雲國之堺有、名佐比賣山是也、亦持引綱者、薗之長濱是也、亦北門佐伎之國矣、國之餘有耶見者、國之餘有詔而、童女胸鉏所取与、大魚之支太衝別而、波多須須支穗振別而、三身之綱打挂而、霜黑葛聞々耶々爾、河船之毛々曾々呂々爾、國々來々引來縫國者、自多久乃打絕与、狹田之國是也、亦北門良波乃國矣、國之餘有耶見者、國之餘有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穗振別而、三身之綱打挂而、霜黑葛聞々耶々爾、河船之毛々曾々呂々爾、國々來々引來縫國者、自手波打絕而、闇見國是也、亦高志之都都乃三埼矣、國之餘有耶見者、國之餘有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穗振別而、三身之綱打挂而、霜黑葛聞々耶々爾、河船之毛々曾々呂々爾、國々來々引來縫國者、三穗之埼、持引綱夜見島、固堅立加志者、有伯耆國火神岳是也、今者國者引訖詔而、意宇社爾御杖衝立而、意惠登詔、故云意宇。
新字:所以号意宇者、国引坐八束水臣津野命詔、八雲立出雲国者、狭布之堆国在哉、初国小所作、故将作縫詔而、栲衾志羅紀乃三埼矣、国之余有耶見者、国之余有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穂振別而、三身之綱打挂而、霜黒葛聞々耶々爾、河船之毛々曽々呂々爾、国々来々引来縫国者、自去豆乃打絶而、八穂米支豆支乃御埼也、此而堅立加志者、石見国与出雲国之堺有、名佐比売山是也、亦持引綱者、薗之長浜是也、亦北門佐伎之国矣、国之余有耶見者、国之余有詔而、童女胸鉏所取与、大魚之支太衝別而、波多須須支穂振別而、三身之綱打挂而、霜黒葛聞々耶々爾、河船之毛々曽々呂々爾、国々来々引来縫国者、自多久乃打絶与、狭田之国是也、亦北門良波乃国矣、国之余有耶見者、国之余有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穂振別而、三身之綱打挂而、霜黒葛聞々耶々爾、河船之毛々曽々呂々爾、国々来々引来縫国者、自手波打絶而、闇見国是也、亦高志之都都乃三埼矣、国之余有耶見者、国之余有詔而、童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須須支穂振別而、三身之綱打挂而、霜黒葛聞々耶々爾、河船之毛々曽々呂々爾、国々来々引来縫国者、三穂之埼、持引綱夜見島、固堅立加志者、有伯耆国火神岳是也、今者国者引訖詔而、意宇社爾御杖衝立而、意恵登詔、故云意宇。
書き下し
意宇と号くる所以は、国引きましし八束水臣津野命詔りたまわく、八雲立つ出雲の国は、狭布の堆国なるかも、初国小さく作らせり、故、作り縫わむと詔りたまいて、栲衾志羅紀の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、去豆の打ち絶えよりして、八穂米支豆支の御埼なり。此くて堅め立てし加志は、石見の国と出雲の国との堺に有る、名は佐比売山是れなり。亦持ち引きし綱は、薗の長浜是れなり。亦北門の佐伎の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、多久の打ち絶えよりして、狭田の国是れなり。亦北門の良波の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、手波の打ち絶えよりして、闇見の国是れなり。亦高志の都都の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、三穂の埼なり。持ち引ける綱は夜見の島、固め堅め立てし加志は、伯耆の国なる火神岳是れなり。今は国は引き訖えつと詔りたまいて、意宇の社に御杖衝き立てて、意恵と詔りたまいき、故、意宇と云う。
現代語訳
意宇(おう)と名付けたわけは、国引きをなさった八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が仰せられるには、「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のような幼い国であることよ。初めの国を小さく作ったものだ。だから作り縫い足そう」と仰せられて、「栲衾(たくぶすま)新羅の岬を、国の余りがあるかと見ると、国の余りがある」と仰せられて、童女の胸のような鋤を手に取られ、大魚のえらを突くように突き分けて、はたすすきの穂を振り分けるように切り分けて、三つ撚りの綱を打ち掛けて、霜黒葛のようにたわみながら、河船がそろそろと進むように、「国来い、国来い」と引いて来て縫い合わせた国は、去豆の切れ目から八穂米支豆支(やほにきづき)の岬までである。こうして固く立てた杭は、石見国と出雲国との境にある、佐比売山(さひめやま)がこれである。また引いた綱は、薗の長浜がこれである。また「北門(きたど)の佐伎の国を、国の余りがあるかと見ると、国の余りがある」と仰せられて、童女の胸のような鋤を手に取られ、大魚のえらを突くように突き分けて、はたすすきの穂を振り分けるように切り分けて、三つ撚りの綱を打ち掛けて、霜黒葛のようにたわみながら、河船がそろそろと進むように、「国来い、国来い」と引いて来て縫い合わせた国は、多久の切れ目からで、狭田の国がこれである。また「北門の良波の国を、国の余りがあるかと見ると、国の余りがある」と仰せられて、童女の胸のような鋤を手に取られ、大魚のえらを突くように突き分けて、はたすすきの穂を振り分けるように切り分けて、三つ撚りの綱を打ち掛けて、霜黒葛のようにたわみながら、河船がそろそろと進むように、「国来い、国来い」と引いて来て縫い合わせた国は、手波の切れ目からで、闇見の国がこれである。また「高志(越)の都都の岬を、国の余りがあるかと見ると、国の余りがある」と仰せられて、童女の胸のような鋤を手に取られ、大魚のえらを突くように突き分けて、はたすすきの穂を振り分けるように切り分けて、三つ撚りの綱を打ち掛けて、霜黒葛のようにたわみながら、河船がそろそろと進むように、「国来い、国来い」と引いて来て縫い合わせた国は、三穂の岬である。引いた綱は夜見の島、固く立てた杭は、伯耆国の火神岳がこれである。「今は国を引き終えた」と仰せられて、意宇の社に御杖を突き立てて、「おえ」と仰せられた。だから意宇という。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文さて上の例どもによらば、この上にも、自某処打絶而と云う事の有るべきに、ここにのみその詞無きは、この三穂の崎は、東の限りは海なるが故なり。この下に是也と云う二字も有るべきに、無きは、ここには略きて、合わせて下に云えるなり。持引(持の字一本に接と有るは誤なり)夜見島は、島根郡のところに、〓伯耆国郡内夜見島と有る、これなり。固堅(固の字一本に固とあるは誤なり)火神岳は、この風土記の抄に、伯耆の国会見の郡の大山これなりと云えり。さも有るべし。それにつきて思うに、大山は、神名帳に、大神山神社と有れば、火の字は、大を誤れるにはあらざるか。抄は、天和のころ国の人岸崎時照と云えるが作れる物にて、三巻あるなり。是也は、上の三穂之埼、夜見島をも合わせて、一つに云えるなり。引訖(一本に訖の字を記と書けるは誤なり)御杖衝立而、意恵登詔故云意宇、意恵は、事に労きて苦しきを、休息う時の声なり。さて恵は、宇延のつづまりたる音にて、上に宇を帯ぶる故におのずから後に意宇とは成れるなるべし。さてこの臣津野の命の引き来て縫い作り坐せる、すべての地は、島根、秋鹿、楯縫、出雲の四郡にて、東より西へつらなれる地にして、そを西よりつぎつぎに物し給えるなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文上の件の文、いみじく古き所どころ有りて、聞え難きふしぶし多かるを、今の本、文字の誤さえ多くて、いよいよさとり難き所どころ有るを、しいて解く。国引坐とは、(坐の字座と書ける本も有り)すなわちこの文に見えたる如く、他国の余あるところを、裂き取り引き寄せ以て来て、出雲の国の足らざる所を足して、造りおえ給えるを云う。この御功をもて、この神をかく称え申せるなり。大国主の神を、天の下造らしし大神と申すが如し。八束水臣津野の命は、古事記に、淤美豆奴の神と有りて、須佐之男大神の四世の御孫にて、深淵之水夜礼花神の御子にて、大国主の大神の御祖父神なり。この風土記の中にも、所々見え給えり。狭布之堆国、堆の字は、写し誤りなるべし。遠江国の人内山の真龍、この風土記の注を作りて、稚の字なりと云えり。さも有るべし。狭布よりの続き名は、疎けれども、すべてにかけて、稚国と云いつべき事なり。古事記にも書紀にも、国稚と有れば、よし有りておぼゆ。初国、小所作とは、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神の、初めて生成し給える時に、小さくつくり給えりとなり。そのかみこの出雲の国は、北の方足らわずして、狭布のごとく、狭く細き国なりけむ。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文自去豆乃は、去豆は地の名なり、楯縫の郡に、許豆の社、許豆島、許豆浜など見えて、出雲と楯縫と二郡の堺なりと有り。乃は誤字なるべし。その字いまだ考え得ず。打絶而は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)堺をなして、限るを云う。八穂米は米の字は尒を誤れるなるべし。八百土にて、杵築の枕詞なり。支豆支乃御埼は、分けては今の世に日之御崎と云う処なれども、ここは楯縫の郡の堺までの地を、広く云えるなり。されば杵築の東の方までわたれる山をも、御崎山と云えり。加志は、和名抄の舟の具に、唐韻に云う、状舸は、舟を繋ぐ所以なり、漢語抄に云う、加之、と有る物にて、前漢書の地理志には、牂牁と書きて、註に、船を係ぐ代なりと有り。万葉の歌にも見えたり。かくてここに云えるは、縫い合わせたる国を、また離れゆかざらむために、繋ぎ堅め給えりし状舸なり。佐比売山は、飯石の郡に見ゆ。持引綱はかの国を、挽き来ませる綱なり。薗之長浜は、神門の郡に、即ち水海と大海との間に山有り、長さ廿二里云々、此は意美豆努命の、国引きましし時の綱なり、今俗人号けて薗の松山と云う云々、と見えたり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文この四郡のうち、出雲の郡をのぞきて、三郡は、南の方意宇の郡との中間に、細く長き入海有りて、出雲の郡のみ、意宇神門二郡につづきたり。ここに内山の真龍が考えたるは、神代には、この入海、西の大海へとおりて、出雲の郡も、北の方半は、かの三郡と同じく、入海をへだてて、意宇の郡神門の郡とは、離れてぞ有りけむと云える、今この国引の文を思うにも、まことにさぞ有りけむとぞ覚ゆる。さてこの文に見えたる事どもを、ただ寓言のごとく心得むは、例のから心にぞ有りける。神代には、思いのほかなる、奇しき異しき事どもの有りて、この国土は成り竟えたるなれば、古の伝説を、いささかも疑うべきにあらず。ことごとく実の事なり。ただ文のままに心うべし。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文また出雲の郡に薗長三里云々、此れ則ち出雲と神門と二郡の堺なりと有るは、薗の長浜長さと有りけむが、長の字よりまがいて、長浜の二字の脱けたるにて、かの薗の松山と同所なるを、山は神門の郡に属き、浜は、出雲の郡に属けるにぞあらむ。北門とは、出雲の国の北面の海を云うなるべし。佐伎之国は、佐の字は、於の誤にて、隠岐の国にやあらむ、出雲より北の方にあたればなり。されどこはなお疑わし。そのよしは下に云うべし。所取与の与の字は、而の誤なり、上下なる例もて知るべし。自多久乃は、島根の郡に、多久の社また多久川あり。秋鹿の郡との堺なり。乃の字は、川の誤か、されど上の自去豆と有る下にも、この字有りて、去豆には川は見えざれば、ここも如何が有らむ。打絶与は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)与の字は、これも而の誤なり。狭田之国は、秋鹿の郡に、佐太川また佐太の水海など見ゆ、これなり。但しここは、秋鹿楯縫二郡の地を云えるなり。北門良波之国は、いまだ考え得ず。そもそも良理流礼呂を、言の頭に置ける例は無き事なれば、良の字は誤なるか。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文但し出雲の国の大海の北の方には、隠岐の国の外には、国も島も在る事無ければ、上なる志羅紀の御崎に准うるに、もしくは上の佐伎之国も、この良波之国も、北の方なる異国の名にもや有らむ、なおよく考うべし。自宇波、(一本に、この下に縫の字あるは、衍なり。また上の自去豆と自多久との下には、乃の字あるを、ここにのみは、その字無し)この地の名は見えず。一本に、宇の字を、手と作るにつきて考うるに、手染なるべきか。島根の郡に手染の郷あり。すべてのさまをもて考うるに、ここは必ず上文の多久より東、下文の三穂之埼より西に有るべき所なれば、手染にて、地理もよくかなえり。打絶而は、打の字諸の本みな折と作れど、例によりて改めつ。闇見の国は、島根の郡に、久良弥の社また椋見の社見ゆ。ここはこれも、多久川より手染までの地を、広く云えるなり。高志は、越の国なり。都都乃三埼は、(一本には都乃三埼と有り、)さだかならず。和名抄に、能登の国羽咋の郡に、都知の郷、越後の国頸城の郡に、都宇の郷、神名帳に、越前の国敦賀の郡、また坂井の郡に、御前の神社などは有り、これらのうちにもや有らむ。なおよく尋ぬべし。三穂之埼は、島根の郡に見えて、東のはてなり。
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