玉勝間 / 八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称
さて八の卷に、わけがため我手もすまに春の野にぬけるつばなぞめしてこえませ、これはわけがため我手も云云と有れば、わけは汝なり、又ひるはさきよるはこひぬるねむの花君のみ見めや和氣さへに見よ、是れも見よとあれば、和氣は汝なるに、君のみ見めやは、かなはざるにつけて思ふに、君ノ字は吾を誤れるなるべし。そもそも此二首は、人をさして、和氣と云へる事、四の卷に、我を云へると、うらうへのたがひにて、いとまぎらはしきを、つらつらに考ふるに、まづ此二首は、紀ノ女郞が、家持ノ卿に贈れる歌なれば、家持ノ卿を、和氣といやしめては云ふべきよし無きに、然云へるは、殊更にたはぶれたる詞なり。さる故に、戯奴と書て、變云和氣と注したり。是れもとより詠み人の書るままなるべし。そは君を奴の如く、賤めて、和氣と申すは、戯れぞと云ふ意を、知らせたる物なり。さてその和氣と云ふは、四の卷なる如く、まうけて、殊更にいやしめて云ひなす稱にして、我事ながら、人より云ふ詞につかふ稱なる故に、汝と云ふに用ひたるなり。
新字:さて八の巻に、わけがため我手もすまに春の野にぬけるつばなぞめしてこえませ、これはわけがため我手も云云と有れば、わけは汝なり、又ひるはさきよるはこひぬるねむの花君のみ見めや和気さへに見よ、是れも見よとあれば、和気は汝なるに、君のみ見めやは、かなはざるにつけて思ふに、君ノ字は吾を誤れるなるべし。そもそも此二首は、人をさして、和気と云へる事、四の巻に、我を云へると、うらうへのたがひにて、いとまぎらはしきを、つらつらに考ふるに、まづ此二首は、紀ノ女郎が、家持ノ卿に贈れる歌なれば、家持ノ卿を、和気といやしめては云ふべきよし無きに、然云へるは、殊更にたはぶれたる詞なり。さる故に、戯奴と書て、変云和気と注したり。是れもとより詠み人の書るままなるべし。そは君を奴の如く、賤めて、和気と申すは、戯れぞと云ふ意を、知らせたる物なり。さてその和気と云ふは、四の巻なる如く、まうけて、殊更にいやしめて云ひなす称にして、我事ながら、人より云ふ詞につかふ称なる故に、汝と云ふに用ひたるなり。
書き下し
さて八の巻に、わけがため我手もすまに春の野にぬけるつばなぞめしてこえませ、これはわけがため我手も云云と有れば、わけは汝なり、又ひるはさきよるはこいぬるねむの花君のみ見めや和気さえに見よ、是れも見よとあれば、和気は汝なるに、君のみ見めやは、かなわざるにつけて思うに、君の字は吾を誤れるなるべし。そもそも此二首は、人をさして、和気と云える事、四の巻に、我を云えると、うらうえのたがいにて、いとまぎらわしきを、つらつらに考うるに、まず此二首は、紀の女郎が、家持の卿に贈れる歌なれば、家持の卿を、和気といやしめては云うべきよし無きに、然云えるは、殊更にたわぶれたる詞なり。さる故に、戯奴と書きて、変じて和気と云うと注したり。是れもとより詠み人の書るままなるべし。そは君を奴の如く、賤めて、和気と申すは、戯れぞと云う意を、知らせたる物なり。さてその和気と云うは、四の巻なる如く、もうけて、殊更にいやしめて云いなす称にして、我事ながら、人より云う詞につかう称なる故に、汝と云うに用いたるなり。
現代語訳
さて巻八に「わけがため我が手もすまに春の野に抜けるつばなぞ召して肥えませ(あなたのために私が手も休めずに春の野で抜いた茅花ですよ、召し上がって太りなさいませ)」とある。これは「わけがため我が手も」云々とあるので、「わけ」は「おまえ(あなた)」である。また「昼は咲き夜は恋い寝るねむの花君のみ見めやわけさえに見よ(昼は咲き、夜は恋いつつ寝るという合歓の花を、君だけが見るものか、わけも見なさい)」とあるのも、「見よ」とあるから「わけ」は「おまえ」であるのに、「君のみ見めや」では合わないことから考えると、「君」の字は「吾」を誤ったものであろう。そもそもこの二首は、相手を指して「わけ」と言っていることが、巻四で自分を言っているのと表裏逆になっていて、たいそう紛らわしいのだが、よくよく考えると、まずこの二首は紀女郎が家持卿に贈った歌であるから、家持卿を「わけ」といやしめて言うはずはないのに、そう言ったのは、ことさらに戯れた言葉なのである。それゆえに「戯奴」と書いて、「変じてわけと云う」と注している。これはもともと詠み手が書いたとおりであろう。それは、あなたを奴のようにいやしめて「わけ」と申すのは戯れですよ、という意味を知らせたものである。さてその「わけ」というのは、巻四にあるように、仮に設けてことさらにいやしめて言いなす呼び方であって、自分のことでありながら相手から言う言葉に使う呼び方であるから、「おまえ」と言うのに用いたのである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称次に家持の卿のかえしに、わが君にわけはこうらし給いたるつばなをくえどいややせにやす、此わけは、ただに我を云うに似たれども、然らず。女郎がたわぶれをうけて、その和気とのたまえる我はと云う意なり。かなたの戯の詞を受けて、そのままに云いかえす事、今の世にも有る事なり。又これも、必ず吾妹子と云うべきを、わが君にと云えるも、女郎が、こなたを和気と云えるを、打返して、あがめたるたわぶれなり、心をつくべし。上の件の和気の事、斯くまぎらわしき歌ある故に、昔よりよく解得たる人無きを、右の如く心得る時は、皆明らかにして、まぎれ無く、戯奴と書る由も、よく聞えたり。
-
『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
-
『玉勝間』八の巻 万葉集に乎知と云ふ言万葉集五の巻に、わがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ薬はむともまた遠知めやも、雲にとぶくすりはむよは京見ばいやしき我身また越知ぬべし、此二つの遠知と云う言、落にしては、仮字もたがい、歌の意も聞えず。昔より解えたる人無きを、おのれ考え得たり。まず此二うたは、久しく筑紫に在りて、京を恋しく思いて詠めるにて、始めの歌の意は、わがよわい盛り過て、いたく衰えたり、今はかのもろこしに有りし、淮南王の仙薬を服とも、又若き昔にかえる事は得あらじとなり。次なるは、淮南王の薬をはまんよりは、我は、京を見たらば、又昔にかえりて、若くなるべしとなり。遠知は、何事にても、又もとへかえる意にて、此歌どもなるは、身の又若かりし昔にかえるを云えるなり。十七の巻、家持主の鷹の長歌に、手ばなれも乎知もかやすき云云、こは鷹を褒めたるにて、この乎知は、本の手へ返りくる事を云えるなり。二十の巻に、わが屋戸に咲るなでしこまいはせむゆめ花ちるないや乎知にさけ、是れも又初めへ返り返りして、いよいよ久しく咲けと云えるなり。
-
『玉勝間』十三の巻 万葉集にあえぬがにと云へる言万葉集八の巻に、云云「生うる橘、玉にぬく、五月を近み、あえぬがに、花咲きにけり」云云、十の巻に、「秋づけば、水草の花の、あえぬがに、思えど知らず、ただに逢わざれば」とある、このあえぬを、不交と解きたるは誤りなり。交は阿閇にて、仮字も異なり。橘の玉にあえ貫くなど詠めるあえと、思い混うべからず。阿要は、木草の実のなる事にて、ぬは、いわゆる畢ぬなり。がには我禰爾のつづまりたるにて、むこがね后がねなど云うがねと同じ言にて、古今集にも、老いかくるがになど見え、万葉には殊に多き辞にて、がねともがにとも有り。言の意は、予て設くる由なり。されば八の巻なるは、実になるべき設けに、かねて花の咲けると云えるなり。十の巻なるは、その設けにかねて咲きたる花の、実になるべく思えどと云えるにて、恋の成るを譬えたるなり。歌の意は、我が恋は成るべく思えども、いまだ逢わざることなれば、猶いかがあらむ、知られずと詠めるなり。又十八の巻橘の長歌に、「あゆる実は、玉に貫きつつ」、ともあるを以て、あえは、実になる事を云えりと云う事を知るべし、あえあゆと活用く言なり。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つやよいのつごもりに、その日云云、その日と云える詞、いたずらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるおり、この詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみじもと有らば、有りてもよからんか。板敷のしたに、したはしもなるべし。板敷のうちのしもつかたを云うなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、この物語の作者の、みずから行きたるよしにや。もしこの歌詠める翁の事ならば、かの翁と云う事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云わざれば、この詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思うに、桜花を見ありくを、桜がりと云うなれば、この条に狩と云えるは、皆桜がりの事にやあらん。上にも下にも、ただ桜の事をのみ云えればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有り、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云う事無くて有らまほし。「思えども身をし分けねばは、分けぬにと云う意なり、この例古き歌には多し。身を分くるは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云う。
-
『玉勝間』十四の巻 夜〃寝ず起てゐるを居と云へる事万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらい君まつと居りしあいだに月かたぶきぬ、十八に、「おりあかしこよいはのまむ、ほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ、二十に「家おもうといをねずおれば、たずがなくあしべも見えず春の霞に、なおあり。大かたこのたぐいの居は、ただ一わたり軽くつねに云うとはかわりて、夜る寝ずに、起きて居る意なり。軽く見るべからず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る