玉勝間 / 七の巻 催馬楽と云ふ名の事
又或る說に、催馬樂と云ふは、古へ諸國より御貢物を納むる時、民の口すさびに、うたひたる歌にて、御貢物を負する馬を、かりもよほす意なりと云へるは、催馬と云ふ名につきて、造りたる拙き說なり。又縣居ノ大人は、さいばりを、さいばらと云ひなせるなりとて、やがて催馬樂を、さいばりと書かれたれども、是れも誤られたり。さいばりと云ふは、もと、さいばりに衣はそめむ云云と云ふ歌の、一曲の名なるを、十六曲の惣名として、大前張小前張と分れたる、皆神樂歌の方につきたる物にて、催馬樂とは、もとより別物なるをや。さてついでに云はむ、さいばりを、前張と書は、借字にて、初榛なり。さて又或說に、催馬樂と云ふは、もと唐樂の名なり。和名抄、音樂ノ部曲調類、雙調の條に、柳花苑、春庭樂、催馬樂、狹鰭河、和風樂と、並べあげたり。みな唐樂なりと云へるも、ひがことなり。是れは、吾駒の歌など雙調に奏る故に、雙調の曲の中へ、まじへ擧たるにこそ有れ、唐樂に催馬樂と云ふ有る事無し。然る故に其の催馬樂と擧たる分注に、我駒ノ曲是也と有り。又其次なる狹鰭河も、催馬樂の中の澤田川の曲なり。即ち分注に、澤田川ノ曲是也と有り。唐樂に狹鰭河と云ふ名有るべきかは。
新字:又或る説に、催馬楽と云ふは、古へ諸国より御貢物を納むる時、民の口すさびに、うたひたる歌にて、御貢物を負する馬を、かりもよほす意なりと云へるは、催馬と云ふ名につきて、造りたる拙き説なり。又県居ノ大人は、さいばりを、さいばらと云ひなせるなりとて、やがて催馬楽を、さいばりと書かれたれども、是れも誤られたり。さいばりと云ふは、もと、さいばりに衣はそめむ云云と云ふ歌の、一曲の名なるを、十六曲の惣名として、大前張小前張と分れたる、皆神楽歌の方につきたる物にて、催馬楽とは、もとより別物なるをや。さてついでに云はむ、さいばりを、前張と書は、借字にて、初榛なり。さて又或説に、催馬楽と云ふは、もと唐楽の名なり。和名抄、音楽ノ部曲調類、双調の条に、柳花苑、春庭楽、催馬楽、狭鰭河、和風楽と、並べあげたり。みな唐楽なりと云へるも、ひがことなり。是れは、吾駒の歌など双調に奏る故に、双調の曲の中へ、まじへ挙たるにこそ有れ、唐楽に催馬楽と云ふ有る事無し。然る故に其の催馬楽と挙たる分注に、我駒ノ曲是也と有り。又其次なる狭鰭河も、催馬楽の中の沢田川の曲なり。即ち分注に、沢田川ノ曲是也と有り。唐楽に狭鰭河と云ふ名有るべきかは。
書き下し
また或る説に、催馬楽と云うは、古諸国より御貢物を納むる時、民の口すさびに、うたいたる歌にて、御貢物を負する馬を、かりもよおす意なりと云えるは、催馬と云う名につきて、造りたる拙き説なり。また県居の大人は、さいばりを、さいばらと云いなせるなりとて、やがて催馬楽を、さいばりと書かれたれども、これも誤られたり。さいばりと云うは、もと、さいばりに衣はそめむ云々と云う歌の、一曲の名なるを、十六曲の総名として、大前張・小前張と分かれたる、皆神楽歌の方につきたる物にて、催馬楽とは、もとより別物なるをや。さてついでに云わむ、さいばりを、前張と書くは、借字にて、初榛なり。さてまた或る説に、催馬楽と云うは、もと唐楽の名なり。和名抄、音楽の部曲調類、双調の条に、柳花苑、春庭楽、催馬楽、狭鰭河、和風楽と、並べあげたり。みな唐楽なりと云えるも、ひがことなり。これは、吾駒の歌など双調に奏る故に、双調の曲の中へ、まじえ挙げたるにこそ有れ、唐楽に催馬楽と云う有る事無し。然る故にその催馬楽と挙げたる分注に、我駒の曲これなりと有り。またその次なる狭鰭河も、催馬楽の中の沢田川の曲なり。即ち分注に、沢田川の曲これなりと有り。唐楽に狭鰭河と云う名有るべきかは。
現代語訳
またある説に、催馬楽というのは、昔、諸国から貢ぎ物を納めるときに、民が口ずさんで歌った歌で、貢ぎ物を負わせる馬を駆り立てる意味だと言っているのは、「催馬」という名に合わせて作った拙い説である。また県居の大人(賀茂真淵)は、「さいばり」を「さいばら」と言いなしたのだとして、そのまま催馬楽を「さいばり」と書かれたが、これも誤られたのである。「さいばり」というのは、もとは「さいばりに衣は染めむ」云々という歌の一曲の名であるのを、十六曲の総称として大前張・小前張と分かれたもので、みな神楽歌の方に属するものであって、催馬楽とはもともと別物なのである。さてついでに言っておくと、「さいばり」を「前張」と書くのは当て字で、本来は「初榛(さいばり)」である。さてまたある説に、催馬楽というのはもとは唐楽の名である、和名抄の音楽部曲調類の双調の条に「柳花苑、春庭楽、催馬楽、狭鰭河、和風楽」と並べ挙げている、これはみな唐楽である、と言っているのも誤りである。これは、吾駒の歌などを双調で演奏するので、双調の曲の中へ混ぜて挙げたのであって、唐楽に催馬楽というものがあるわけではない。そのため、その「催馬楽」と挙げた割注に「我駒の曲がこれである」とある。またその次の「狭鰭河」も、催馬楽の中の「沢田川」の曲である。すなわち割注に「沢田川の曲がこれである」とある。唐楽に「狭鰭河」という名があるはずがあろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 催馬楽と云ふ名の事長瀬の真幸がいわく、催馬楽と云う名は、その初についでたる吾駒の歌によれるものなり。その歌は、いであがこま、はやくゆきこせ、まつちやま、あわれ、まつちやま、はれ、まつちやま、まつらんひとを、ゆきてはや、あわれ、ゆきてはやみん、これなり。この歌はもと、万葉集十二に、いで吾が駒、早く行きこそ、真土山、待つらむ妹を、行きて速く見む、と有る歌なり。はじめの二句、馬を催す詞なるをもて、催馬楽とは名づけたり。楽は、唐の楽曲どもの名、某楽某楽と云うによりて、添えたるにて、やがてその字音をとりて、らと呼ぶなり。さてこの吾駒の歌を、初とする故に、その名を、もろもろの曲の総名とせるなりと云える、この説よろし。体源抄には、狛朝葛新作続教訓抄に云う、催馬楽といふは、催馬楽と云う楽有り、それより事おこれり、この楽の唱歌に、駒をもよおすと云う事の有りけるを、やがて歌になして、国々よりうたい出したり。我駒と云う催馬楽これなり、と云えれど、これは、かの歌もと万葉の歌なる事を知らずして、唐楽の唱歌より出でたりと、誤り伝えたるひがことにて、国々よりうたい出したりと云えるも、ひがことなり。
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『玉勝間』七の巻 催馬楽と云ふ名の事また春庭楽・和風楽なども、皇朝にて作れる曲にして、唐楽にはあらざるをや。さてついでに云わむ、催馬楽と云う名は、三代実録三の巻に、始めて見えたり。
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『玉勝間』四の巻 東屋のまや月夜よし夜よしさいばらに、東屋のま屋のあまりと云える事を、東屋とま屋とを、別に心得来たり。和名抄にも、四阿はあづまや、両下はまやと、別にあげたり。然れどもよく思うに、かの催馬楽の趣は、必ず一つの屋とこそ聞こえたれ、東屋の軒にも立ち濡れ、またま屋の軒にも立ち濡れたるさまには有らず。されば是れは、うたう歌なれば、東屋の東屋のと、重ねて云う言を、あづを略きて、まやのとうたいて、五七言の調べにかなえたる物なり。今の世にも、うたう歌には、このたぐい常に多し。また月夜よし夜よしと云える歌も、月夜よし月夜よしと、重ねたる詞なるを、月を略きて夜よしと云えるにて、もはら同じ事なり、相証すべし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井四つには、斎内親王の宮仕えし給うことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞こゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかえと云うべき物かは。唯だ天皇に仕え奉る女官たちなる事、論無き物をや。五つには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕え奉る人とこそ聞こえたれ。たとい本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕え奉り居る人を、うちまかせて然か云わん事はいかが。六つには、もし斎王の大御神に仕え給う事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七つには、かの鈴鹿郡なる山の辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云う事なり。赤人の事は、山辺という地の名によりて、附会したる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨てたらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云いよせたるも、もと山辺という所、又古き清水のある故なれば、それもかえりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古え倭姫の命の宮有りしと云うも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
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『玉勝間』十一の巻 又神楽の調子同書に、資忠云わく、上代は神楽は無調なり、しかるに近来すべて壱越調を以てこれを為す、我が世に相替わる事これなりと云えり。さきに、しるせると異なるはいかにぞや。今思うに、この説まことに然るべし。さきの、神楽はもと平調なりと云える説は、ひがことなるべし。これに我が世云云と云えるは、この資忠と云いし人の世の程に、かく変わりぬる由なり。
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『玉勝間』二の巻 歌書の註を抄となづくる事昔より、歌ぶみの註を抄と云いて、その名をも多く某抄とつくる。抄の字は、註釈にはあたらざれども、もろこしよりして、仏ぶみには、その書のさまにかかわらで、記とも集とも抄とも名づけたる、つねの事なれば、歌ぶみの註を抄と云うも、もと仏書の名どもにならえる物なるべし。
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