玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井
もと水有しが、近き頃となりては、あせて、水は無かりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは殘れりしと云ふを見れば、今は井のかただにのこらず、皆田に成りて、唯だいささかなる所に、古き松一もと立てるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なると云へり。その近き里に、八十八になれりといふ翁のあるが、語りけるは、此松、おのが若かりしほどに、年老たる者の、昔も今も同じ事にて、かはらずと云ひしを、その頃も今も、又いささか變れる事無く、高くも太くもならず、ただ同じ事なりとぞ語りける。今見るに、さしも大きなる木にも有らず。よろしき程にて、まことに古くは見えたり。今より後、もし此松さへ枯失せたらんには、さばかりの御井の、名殘りだになく、消えはてなん事、いともいとも心うく、うれはしきわざなれば、いかで石ぶみなどを建てて、跡をだに、長き世まで殘さまほしきわざなりかし。さて又かの赤人屋敷と云ふ所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有リ、山邊村の東南のはつれの所なり。こは世のつねの井のさまに、石を積みめぐらして、水も有り、此水、いみしきひでりにもかれずと里人云へり。
新字:もと水有しが、近き頃となりては、あせて、水は無かりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは残れりしと云ふを見れば、今は井のかただにのこらず、皆田に成りて、唯だいささかなる所に、古き松一もと立てるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なると云へり。その近き里に、八十八になれりといふ翁のあるが、語りけるは、此松、おのが若かりしほどに、年老たる者の、昔も今も同じ事にて、かはらずと云ひしを、その頃も今も、又いささか変れる事無く、高くも太くもならず、ただ同じ事なりとぞ語りける。今見るに、さしも大きなる木にも有らず。よろしき程にて、まことに古くは見えたり。今より後、もし此松さへ枯失せたらんには、さばかりの御井の、名残りだになく、消えはてなん事、いともいとも心うく、うれはしきわざなれば、いかで石ぶみなどを建てて、跡をだに、長き世まで残さまほしきわざなりかし。さて又かの赤人屋敷と云ふ所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有リ、山辺村の東南のはつれの所なり。こは世のつねの井のさまに、石を積みめぐらして、水も有り、此水、いみしきひでりにもかれずと里人云へり。
書き下し
もと水有りしが、近き頃となりては、あせて、水は無かりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは残れりしと云うを見れば、今は井のかただにのこらず、皆田に成りて、唯だいささかなる所に、古き松一もと立てるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なると云えり。その近き里に、八十八になれりという翁のあるが、語りけるは、此松、おのが若かりしほどに、年老いたる者の、昔も今も同じ事にて、かわらずと云いしを、その頃も今も、又いささか変れる事無く、高くも太くもならず、ただ同じ事なりとぞ語りける。今見るに、さしも大きなる木にも有らず。よろしき程にて、まことに古くは見えたり。今より後、もし此松さえ枯れ失せたらんには、さばかりの御井の、名残りだになく、消えはてなん事、いともいとも心うく、うれわしきわざなれば、いかで石ぶみなどを建てて、跡をだに、長き世まで残さまほしきわざなりかし。さて又かの赤人屋敷と云う所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有り、山辺村の東南のはずれの所なり。こは世のつねの井のさまに、石を積みめぐらして、水も有り、此水、いみしきひでりにもかれずと里人云えり。
現代語訳
もとは水があったが、近ごろになって涸れて水は無くなった。それでもこの一、二年前までは井戸の形は残っていたというが、見れば今は井戸の形さえ残らず、すべて田になって、ほんのわずかな所に古い松が一本立っているだけである。この松の根元が御井の跡だと言っていた。その近くの里に八十八歳になったという老人がいて、語ったことには、この松は、自分が若かったころに年寄りが「昔も今も同じで変わらない」と言っていたが、その頃も今も、やはり少しも変わることなく、高くも太くもならず、ただ同じままだ、とのことであった。今見ると、それほど大きな木でもない。ほどほどの大きさで、いかにも古くは見えた。今後もしこの松まで枯れてなくなったなら、あれほどの御井の名残さえ無く消え果ててしまうことは、まことに辛く嘆かわしいことなので、何とかして石碑などを建てて、せめて跡だけでも長い後の世まで残したいものである。さてまた、あの赤人屋敷という所から東北の方へ下った所にも、古く見える井戸がある。山辺村の東南の外れの所である。これは普通の井戸の形で、石を積んで囲い、水もあって、この水はひどい日照りにも涸れないと里人は言っていた。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井万葉集の歌によめる、伊勢の国の五十師の原山の辺の御井は、鈴鹿の郡にて、今も山辺村と云う所なり。そこに山辺の赤人の屋敷跡と云い伝えたる地あり。又同じ人の硯水とて、古き井も有り。これ山の辺の御井なり。然るに赤人の事をしも云い伝えたるは、中昔よりして、山部ちょう姓と、山辺ちょう姓とまがいて、赤人の姓をも山の辺とせるから、此地の名につきて、云いよせたるひが事なり。さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし。さて五十師原を、万葉の今の本に、いそしのはらと訓みたれども、古はいそと云うに、五十と書ける事無ければ、誤なり。いしのはらと訓むべし。五十と書けるをば、伊と訓む古書の例なればなり。いしのはらとては、此句六文字にて、調悪ろしと思う人もあるべかめれど、そのかみ七もじの句を、六もじに云える例おおき中に、地の名などは、殊によりくるままに、四文字にも六文字にも詠める、つねの事なり。さていしの原と云う名のよしは、今石薬師の駅に、石薬師とて寺有りて、石の仏をまつれる、そは地の上におのずからに立てる、大きなる石のおもてに、薬師と云う仏のかたをえり附けたるにて、此石あやしき石なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古えのを、中頃とめ失いたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有りける。そのゆえを云わむには、まずこの古き所を尋ぬるわざは、ただに古の書どもを考えたるのみにては、知りがたし。いかに委しく考えたるも、書もて考え定めたる事は、その所にいたりて見聞けば、いたく違う事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、その国にては、さすがに書も伝え、語りも伝えて、まがい無き事も有り。さればみずからその地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問い聞きなどもせでは、事たらわず。またただ一たび物して、見聞きたるのみにても、なおたらわず。行きて見聞きて立ちかえりて、またふみどもと考え合わせて、またまたも行きて、よく見聞きたるうえならでは、定めがたかるべし。さてまたそのところの人に逢いて、問い聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古えの事を、あまりたしかに知りがおに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考えなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云うが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物そこないなり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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