玉勝間 / 一の巻 又
萬の書ども、すり本と寫し本との、善さ惡しさを云はむに、まづすり本の、得やすくたよりよき事は、云ふもさらなり。しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本の善き惡しきをもえらばずてゑりたるは、さらにも云はず、物知り人の手をへて、えらびたるも、なほひがことの多かるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬれば、もろもろの寫シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、唯だ一つにさだまる故に、誤りの有るを、他本もてたださむとすれども、たやすく得がたき、こはすり本有るが惡しきなり。皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やうやうに板にはゑれるを、いづれも本惡しく、誤り多くして、別に善き本を得てたださざれば、物の用にもたちがたきさへ多かるは、いとくち惜しきわざなりかし。然るにすり本ならぬ書どもは、寫し本はさまざま有れば、誤りは有ながらに、これかれを見あはすれば、善き事を得る、こは寫本にて傳はる一つの善さなり。然かはあれども、寫本はまづは得がたき物なれば、廣からずして絕やすく、又寫すたびごとに、誤りも多くなり。
新字:万の書ども、すり本と写し本との、善さ悪しさを云はむに、まづすり本の、得やすくたよりよき事は、云ふもさらなり。しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本の善き悪しきをもえらばずてゑりたるは、さらにも云はず、物知り人の手をへて、えらびたるも、なほひがことの多かるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬれば、もろもろの写シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、唯だ一つにさだまる故に、誤りの有るを、他本もてたださむとすれども、たやすく得がたき、こはすり本有るが悪しきなり。皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やうやうに板にはゑれるを、いづれも本悪しく、誤り多くして、別に善き本を得てたださざれば、物の用にもたちがたきさへ多かるは、いとくち惜しきわざなりかし。然るにすり本ならぬ書どもは、写し本はさまざま有れば、誤りは有ながらに、これかれを見あはすれば、善き事を得る、こは写本にて伝はる一つの善さなり。然かはあれども、写本はまづは得がたき物なれば、広からずして絶やすく、又写すたびごとに、誤りも多くなり。
書き下し
万の書ども、すり本と写し本との、善さ悪しさを云わむに、まづすり本の、得やすくたよりよき事は、云うもさらなり。しかれどもまた、はじめ板にえる時に、ふみあき人の手にて、本の善き悪しきをもえらばずてえりたるは、さらにも云わず、物知り人の手をへて、えらびたるも、なおひがことの多かるを、一たび板にえりて、すり本出でぬれば、もろもろの写し本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、ただ一つにさだまる故に、誤りの有るを、他本もてたださむとすれども、たやすく得がたき、こはすり本有るが悪しきなり。皇朝の書どもは、大かた元和・寛永のころより、ようやくに板にはえれるを、いづれも本悪しく、誤り多くして、別に善き本を得てたださざれば、物の用にもたちがたきさえ多かるは、いとくち惜しきわざなりかし。然るにすり本ならぬ書どもは、写し本はさまざま有れば、誤りは有りながらに、これかれを見あわすれば、善き事を得る、こは写本にて伝わる一つの善さなり。然かはあれども、写本はまづは得がたき物なれば、広からずして絶えやすく、また写すたびごとに、誤りも多くなり。
現代語訳
さまざまな書物の、刷り本(版本)と写本との良し悪しを言うならば、まず刷り本が手に入りやすく便利であることは言うまでもない。しかしまた、初めに版木に彫るときに、本屋の手で本の良し悪しも選ばずに彫ったものは言うまでもなく、物知りの手を経て選んだものでも、やはり誤りが多いのに、一度版木に彫って刷り本が出てしまうと、さまざまな写本は自然に廃れて途絶えがちになり、ただ一つに定まってしまうので、誤りがあるのを他の本で正そうとしても、容易に手に入らない。これは刷り本があることの悪い点である。わが国の書物は、おおよそ元和・寛永の頃から次第に版木に彫られるようになったが、どれも底本が悪く、誤りが多くて、別に良い本を得て正さなければ役に立たないものさえ多いのは、たいへん残念なことである。一方、刷り本でない書物は写本がさまざまあるので、誤りはありながらも、あれこれ見合わせれば良い読みが得られる。これは写本で伝わることの一つの良さである。とはいえ、写本はまず手に入りにくいものなので、広まらずに絶えやすく、また写すたびごとに誤りも多くなる。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 又また心無き商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、ここかしこひそかにはぶきなどもして、物する程に、全く善き本はいとまれにのみ成り行くめり。さればたとい悪しくは有りとも、なおもろもろの書は、板にえり置かまほしきわざなり。殊に貞観儀式、西宮記、北山抄などのたぐい、そのほかも、古えのめでたき書どもの、なお写本のみにて有るが多きは、いかでいかで皆板にえりて、世にひろくなさまほしきわざなり。家々の記録ぶみなども、つぎつぎにえらまほし。今の世大名たちなどにも、ずいぶんに古書をようじ給う有れど、ただその家の蔵におさめて、あつめ置かるるのみにて、見る人も無く、ひろまらざれば、世のためには何のやく無く、有るかいも無し。もしまことに古書をめで給う心ざし有らば、斯かるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、その道の人に仰せて、あだし本どもをも読み合わせ、善きをえらばせて、板にえらせて、世にひろめ給わむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功なるべし。
-
『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
-
『玉勝間』一の巻 また書紀の今の本は、もじの誤りもところどころ有り。また訓も、古言ながら、多くは今の京になりての云いざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいと古くめづらかにたふとき事もまじれるを、その訓おおくは全からず。あるいはなかば欠け、あるいはもじあやまりなど、すべてうるわしからず、しどけなきは、いといとくち惜しきわざなり。板本一つならでは世に無く、古き写し本はたいと稀なれば、これかれをくらべ見て、直すべき便りも無く、すべて今これをきよらにうるわしく、改め直さむ事は、いといとかたきわざなり。今の世の物知り人、おのれ古のこころ詞をうまらに明らめ得たりと思いがおなるも、なおひがことのみ多かれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこないぞ多かるべき。されば今これをえり改めむとならば、文字の誤りをのみただして、訓をば、暫らくもとのままにて有らむかたぞ、まさりぬべき。
-
『玉勝間』一の巻 また続紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤りことに多く、脱けたることなども有り。そもそも、書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、続紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなること無く、ただ世のつねのから書の訓の如くにてよろしければ、今いかで三代実録までを、皆古き善き本を、これかれ読み合わせて、善きをえらびて、うるわしきえり板を成しおかまほしきわざなり。
-
『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
-
『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事その頃までは、大かた斯かりけるに、このちかき年頃となりては、写本ながら代匠記も多く出でて、さらに得がたからず成りぬるは、古学の道のひらけて、ようずる人多ければぞかし。さるは代匠記のみにも有らず、すべて写しまきなる物は、家家の記録などのたぐい、その外の書どもも、いといと得がたかりしに、何も何も、今はたやすく得らるる事となれるは、いともいともめでたく尊き、御代の御栄えになん有りける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る