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駿台雑話 / 大敵外になし二

彼宅へ往れしに、掃部頭出て對面の後、世話に油斷大敵といふ事定めて御覺へあるべし、某が傳授外にはなく候、此一言にて候ぞ、必御忘れあるなといはれしとそ、むかし周の武王即位のはじめ、太公望を召て、簡約にして行ふて恒とし、萬世に傳ふべき道ありやと問給ひしかは、太公望まうさく、其言丹書にあり、王もし聞むと欲せば齋戒し給へとありしかば、武王齋戒端冕して東面して立給へり、其時太公望西面して丹書の言を武王にさづけていはく、敬勝怠者吉、怠勝敬者滅、義勝欲者從、欲勝義者凶、今油斷大敵の語、鄙諺なれども丹書の戒に叶へり、然るに君につかへ事を務るに油斷のあしきとは誰もしりたる事にて、しかも眞實にしらぬ故に、右の諺をも等閑に聞すごして、こゝにこゝろをとゞむる人なし、よりて毎に油斷して、過失を生じ禍咎を招て、ともすれば臍を噬ことおほきぞかし、掃部頭は常に油斷を禁じて身に近づけぬ心から、眞實に此事の簡要たるをしらるゝ故に、この諺を大切の事として信濃守にも傳へられしなり、拔群の識あるに非してはいかでかくあるべき、其上あからさまにいはれず、前に日を定め其人に盛服させて、おもく傳授せられしも、かの太公望が丹書を武王に授けし面影あり、

新字:彼宅へ往れしに、掃部頭出て対面の後、世話に油断大敵といふ事定めて御覚へあるべし、某が伝授外にはなく候、此一言にて候ぞ、必御忘れあるなといはれしとそ、むかし周の武王即位のはじめ、太公望を召て、簡約にして行ふて恒とし、万世に伝ふべき道ありやと問給ひしかは、太公望まうさく、其言丹書にあり、王もし聞むと欲せば斎戒し給へとありしかば、武王斎戒端冕して東面して立給へり、其時太公望西面して丹書の言を武王にさづけていはく、敬勝怠者吉、怠勝敬者滅、義勝欲者従、欲勝義者凶、今油断大敵の語、鄙諺なれども丹書の戒に叶へり、然るに君につかへ事を務るに油断のあしきとは誰もしりたる事にて、しかも真実にしらぬ故に、右の諺をも等閑に聞すごして、こゝにこゝろをとゞむる人なし、よりて毎に油断して、過失を生じ禍咎を招て、ともすれば臍を噬ことおほきぞかし、掃部頭は常に油断を禁じて身に近づけぬ心から、真実に此事の簡要たるをしらるゝ故に、この諺を大切の事として信濃守にも伝へられしなり、抜群の識あるに非してはいかでかくあるべき、其上あからさまにいはれず、前に日を定め其人に盛服させて、おもく伝授せられしも、かの太公望が丹書を武王に授けし面影あり、

書き下し

彼宅へ往れしに、掃部頭出て對面の後、世話に油斷大敵といふ事定めて御覺へあるべし、某が傳授外にはなく候、此一言にて候ぞ、必御忘れあるなといはれしとそ、むかし周の武王即位のはじめ、太公望を召て、簡約にして行ふて恒とし、萬世に傳ふべき道ありやと問給ひしかは、太公望まうさく、其言丹書にあり、王もし聞むと欲せば齋戒し給へとありしかば、武王齋戒端冕して東面して立給へり、其時太公望西面して丹書の言を武王にさづけていはく、敬勝怠者吉、怠勝敬者滅、義勝欲者從、欲勝義者凶、今油斷大敵の語、鄙諺なれども丹書の戒に叶へり、然るに君につかへ事を務るに油斷のあしきとは誰もしりたる事にて、しかも眞實にしらぬ故に、右の諺をも等閑に聞すごして、こゝにこゝろをとゞむる人なし、よりて毎に油斷して、過失を生じ禍咎を招て、ともすれば臍を噬ことおほきぞかし、掃部頭は常に油斷を禁じて身に近づけぬ心から、眞實に此事の簡要たるをしらるゝ故に、この諺を大切の事として信濃守にも傳へられしなり、拔群の識あるに非してはいかでかくあるべき、其上あからさまにいはれず、前に日を定め其人に盛服させて、おもく傳授せられしも、かの太公望が丹書を武王に授けし面影あり、

現代語訳

その宅へ行かれると、掃部頭が出て対面したあと、こう言いました。世間で「油断大敵」ということを、きっとご存じでしょう。私の伝授は他になく、この一言です。必ずお忘れなさるな、と言われたそうです。昔、周の武王が即位のはじめ、太公望を召して、簡約にして行えば常となり、万世に伝えるべき道があるかと尋ねられたところ、太公望は、その言葉は丹書にあります、王がお聞きになりたいなら斎戒なさいと申し上げました。武王は斎戒し、衣冠を正して東向きに立たれました。そのとき太公望は西向きに丹書の言葉を武王に授けて言いました。敬が怠に勝てば吉、怠が敬に勝てば滅ぶ、義が欲に勝てば従い、欲が義に勝てば凶である、と。今、「油断大敵」の語は、卑俗な諺ですが、丹書の戒めに適っています。ところが、君に仕え事を務めるのに油断が悪いことは誰も知っていながら、真実には知らないので、右の諺も聞き流して、ここに心を留める人がありません。そのため、いつも油断して過失を生じ、禍を招いて、ともすれば後悔することが多いのです。掃部頭は常に油断を禁じて身に近づけない心がけから、真実にこの事の肝要さを知っておられたので、この諺を大切なこととして信濃守にも伝えられたのです。抜群の見識がなくて、どうしてこのようにできましょう。そのうえ、軽々しく言わず、前もって日を定め、その人に盛装させて重く伝授されたのも、あの太公望が丹書を武王に授けた面影があります。

解説

直孝が尚政に授けたのは、「油断大敵」の一言でした。翁は、これを周の武王と太公望の故事、丹書の「敬が怠に勝てば吉、怠が敬に勝てば滅ぶ」と重ねます。卑俗な諺でも丹書の戒めに適うと見て、君に仕える務めで油断が悪いことは誰でも知っていても、真実には知らないから聞き流すのだと指摘します。直孝はそれを身に染みて知っていたので大切な事として伝えたのだと述べ、日を定め盛装させて授けた形式にも、太公望が武王に授けた面影があるとします。形式を整えるのは、伝える事を重く受け止めさせるためです。現代の管理職も、当たり前の注意ほど、伝え方に重みを持たせる工夫が要ります。

この章句が説くこと

油断大敵丹書敬怠太公望伝授駿台雑話

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