駿台雑話 / 孫臏韓信が兵法三
その明日は五萬竈、又明日は三萬竈と、日々にかまどの數を減じて、軍行の跡に遺しけり、さる程に龐涓齊の師の後を追てをしけるが、是を見て大によろこびていひけるは、我もとより齊の師怯き事をしる、いかになれば吾地に入事三日にして、士卒のにくるもの既に過半に及べり、いざ急に追つめんとて、其日步軍をすてヽ、騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり、孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし、馬陵は傍に阻隘多くして兵を伏すべし、こヽに龐涓を討取べしと思ひつヽ、大樹を斫り白けて、龐涓此樹下に死なんと大書したり、さて善射るものをすぐり、萬弩をそろへて道を夾て伏さしめ、それ等と約して、暮に火の高く擧るを見て、萬弩一度におこれと、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く擧て燭しけるに、其書をよみて未畢に萬弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自刎て、遂に竪子が名をなしつといひて死にけり、龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず、曾子の戒之戒之出乎爾者反乎爾者也との給ひしこそ思ひあたりしが、聖賢の言いつかたがひ待るべき、
新字:その明日は五万竈、又明日は三万竈と、日々にかまどの数を減じて、軍行の跡に遺しけり、さる程に龐涓斉の師の後を追てをしけるが、是を見て大によろこびていひけるは、我もとより斉の師怯き事をしる、いかになれば吾地に入事三日にして、士卒のにくるもの既に過半に及べり、いざ急に追つめんとて、其日歩軍をすてヽ、騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり、孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし、馬陵は傍に阻隘多くして兵を伏すべし、こヽに龐涓を討取べしと思ひつヽ、大樹を斫り白けて、龐涓此樹下に死なんと大書したり、さて善射るものをすぐり、万弩をそろへて道を夾て伏さしめ、それ等と約して、暮に火の高く挙るを見て、万弩一度におこれと、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く挙て燭しけるに、其書をよみて未畢に万弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自刎て、遂に竪子が名をなしつといひて死にけり、龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず、曽子の戒之戒之出乎爾者反乎爾者也との給ひしこそ思ひあたりしが、聖賢の言いつかたがひ待るべき、
書き下し
その明日は五萬竈、又明日は三萬竈と、日々にかまどの數を減じて、軍行の跡に遺しけり、さる程に龐涓齊の師の後を追てをしけるが、是を見て大によろこびていひけるは、我もとより齊の師怯き事をしる、いかになれば吾地に入事三日にして、士卒のにくるもの既に過半に及べり、いざ急に追つめんとて、其日步軍をすてヽ、騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり、孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし、馬陵は傍に阻隘多くして兵を伏すべし、こヽに龐涓を討取べしと思ひつヽ、大樹を斫り白けて、龐涓此樹下に死なんと大書したり、さて善射るものをすぐり、萬弩をそろへて道を夾て伏さしめ、それ等と約して、暮に火の高く擧るを見て、萬弩一度におこれと、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く擧て燭しけるに、其書をよみて未畢に萬弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自刎て、遂に竪子が名をなしつといひて死にけり、龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず、曾子の戒之戒之出乎爾者反乎爾者也との給ひしこそ思ひあたりしが、聖賢の言いつかたがひ待るべき、
現代語訳
その翌日は五万の竈、さらに翌日は三万の竈と、日々に竈の数を減らして、軍が行った跡に残しました。そうするうちに龐涓は斉の軍の後を追って進みましたが、これを見て大いに喜んで言うには、わたしはもとより斉の軍が臆病なことを知っていた。どうだ、わが地に入って三日にして、兵の逃げた者はすでに半ばを過ぎている。さあ急に追い詰めよう、と。その日、歩兵を捨てて騎兵だけで、二日の道を一日で進みました。孫臏がその行程をはかると、暮れには馬陵に至るはずでした。馬陵は傍らに険しい地が多く、兵を伏せられます。ここで龐涓を討ち取ろうと思い、大きな木を削って白くし、「龐涓この樹下に死せん」と大きく書きました。さて弓の上手な者を選び抜き、万の弩をそろえて、道を挟んで伏せさせ、彼らと約束して、暮れに火が高く挙がるのを見たら、万の弩は一斉に発せよと、その時を待ちました。龐涓は果たして夜になって、その削った木の下に至りましたが、白い書を見て不審に思い、急いで火を高く挙げて照らしたところ、その書を読み終わらないうちに万の弩が一斉に発し、魏の軍は大いに破れ、龐涓は自ら首をはねて、ついに「小僧に名を成さしめた」といって死にました。龐涓が前に孫臏の足を断った時は、人の足を切ることはわが首を切ることだとは知りませんでした。曾子の「戒めよ戒めよ、爾より出ずるものは爾に反る」という言葉が思い当たりますが、聖賢の言葉がどうして違いましょうか。
解説
この章句が説くこと
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史記 孫子呉起列伝後十三歳、魏と趙、韓を攻む。韓、急を斉に告ぐ。斉、田忌をして将として往かしめ、直ちに大梁に走る。魏の将龐涓、之を聞き、韓を去りて帰る。斉の軍既に已に過ぎて西す。孫子、田忌に謂ひて曰く、「彼の三晋の兵は素悍勇にして斉を軽んじ、斉をば号して怯と為す。善く戦ふ者は其の勢いに因りて之を利導す。兵法に、百里にして利に趣く者は上将を蹶し、五十里にして利に趣く者は軍半ば至る、と。斉の軍をして魏の地に入りて十万の竈を為り、明日五万の竈を為り、又明日三万の竈を為らしめよ」と。龐涓、行くこと三日、大いに喜びて曰く、「我固より斉の軍の怯なるを知る。吾が地に入りて三日、士卒の亡ぐる者半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩軍を棄て、其の軽鋭と倍日并行して之を逐ふ。孫子、其の行を度るに、暮に当に馬陵に至るべし、と。馬陵の道陜くして旁ら阻隘多く、兵を伏す可し。乃ち大樹を斫り白げて之に書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉の軍の善く射る者萬弩をして、道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見て倶に発せよ」と。龐涓果たして夜、斫木の下に至り、白書を見、乃ち火を鑽りて之を燭す。其の書を読むこと未だ畢らざるに、斉の軍の萬弩倶に発す。魏の軍大いに乱れて相ひ失す。龐涓、自ら智窮まり兵敗るるを知り、乃ち自剄して曰く、「遂に豎子の名を成せり」と。斉、因りて勝ちに乗じて尽く其の軍を破り、魏の太子申を虜にして以て帰る。孫臏、此れを以て名、天下に顕れ、世、其の兵法を伝ふ。
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『智囊』詭道・孫臏・虞詡魏の龐涓、韓を攻む。斉の田忌、韓を救い、直ちに大梁に走る。涓これを聞き、韓を去りて帰る。斉軍は已に過ぎて西せり。孫子、田忌に謂いて曰く、「彼の三晋の兵は、素より悍勇にして斉を軽んじ、斉は号して怯と為す。善く戦う者は、其の勢いに因りてこれを利導す。兵法に、『百里にして利に趣く者は上将を蹷し、五十里にして利に趣く者は軍の半ばのみ至る』と」と。斉軍をして魏の地に入らしめ、十万の灶を為り、明日は五万の灶を為り、又明日は三万の灶を為らしむ。涓行くこと三日、大いに喜びて曰く、「吾固より斉軍の怯なるを知れり。我が地に入ること三日、士卒の亡ぐる者半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩軍を棄て、其の軽鋭と兼程してこれを逐う。孫子、其の行を度るに、暮に当に馬陵に至るべし。馬陵の道は狭くして、旁らに阻隘多く、兵を伏すべし。乃ち大樹を斲りて、白くしてこれに書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉軍の善く射る者万弩をして道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見れば、俱に発せよ」と。涓果たして夜に斲木の下に至り、白書を見て、乃ち火を鑽りてこれを燭す。読むこと未だ畢らざるに、斉軍の万弩俱に発す。魏軍乱れ、大敗し、龐涓自剄す。〔李温陵曰く〕「世に豈に十万の師の、三日の内に減じて三万に至りて、猶お其の計を知らざる者有らんや」と。
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『長短経』変通孫子曰く「善く敵を動かす者は、之に形すれば、敵必ず之に従う」と。何を以て之を明らかにせん。魏、趙と韓を攻む。斉の田忌将と為りて之を救い、直ちに大梁に走る。魏の将龐涓、韓を去りて帰る。斉の軍已に過ぎて西す。孫臏、田忌に謂いて曰く「彼の三晋の兵は、素より悍勇にして斉を軽んず。斉は号して怯と為す。善く兵を用うる者は、其の勢いに因りて之を利導す。兵法に曰く『百里にして利に趨く者は、其の上将軍を蹶す』と。斉の軍をして魏の地に入りて十万竈を為らしめ、明日は五万竈を為り、明日は二万竈を為らしめよ」と。涓喜びて曰く「吾固より斉の卒の怯なるを知る。吾が地に入りて三日にして、士卒の亡ぐる者已に半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩兵を棄て、軽鋭と日を倍にし行を并せて之を逐う。臏、其の暮れに馬陵に至るを度る。道狭くして険多く、兵を伏すべし。乃ち大樹を斫りて白くして之に書して曰く「龐涓此の樹の下に死す」と。善く射る者をして万弩もて道を夾みて伏せしめ、期して曰く「火の挙がるを見て発せよ」と。涓、夜斫木の下に至り、白書を見て、乃ち火を鑽りて之を燭し、書を読む。斉の軍万弩俱に発す。魏の軍大いに乱る。涓乃ち自剄して、曰く「果たして豎子の名を成せり」と。
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(二)これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虛に乘ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてヽ、歸らざる事を得べき、これによりて見れば、前にいひしごとく形にはめきをひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし、孫臏が魏を伐て趙の國をとくにて、その形勢に熟するをしるべし、さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、をのづから解ることをすといへり、形にはむれば、敵必形にさヽへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、をのづから我計中に墮るぞかし、後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於齊しかば、田忌又將兵として、前に趙を救しごとくすぐに大梁に赴きけり、魏將龐涓是を聞て韓を捨て歸る程に、齊師とくに行過て先にあり、孫臏田忌にいふやう、三晉の兵素より勇悍にして齊を怯とす、善戰者は敵の勢によりて、その勢のまヽに態と利導して、己が思ふ圖に引付るぞかし、兵法に百里而趣利者蹶上將といへり、さらばいよいよ魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、齊の師魏の境に入て、始て一舍する日は十萬竈をなし、
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(四)是は小人の戒とすべし、ながく世に、たてじとてこそ、あしきらめ、足はたヾねど、首はとりけり、是は翁がたはごとなり、足のかはりに首を得たれば、孫臏はかへとくしたりといふべし、しかるに竈を減じてみせ、樹をしらけて見せける、ひとつとして敵を形にはめざるはなし、竈を減じて見すれば、敵必道を信じてゆき、樹をしらけて見すれば敵必火を擧て見る、火を擧れば萬弩倶に發す、萬弩倶に發すれば敵自刎て死す、一として敵の勢にのせざるはなし、よく敵を料りて兵の形勢に熟せずんば、いかでかくあるべき、孫武が後一人といふべし、炎漢の初に至て、高祖の諸將の中に、韓信こそは兵術に精しく、合戰の上手にてありし、其趙王歇を攻し時、背水の陳にて勝しは、今にあまねく世に稱する事なり、兵法に右倍山陵前左水澤といへるは軍形の常なり、然れども兵に常勢なし、敵に因て變化すれば、軍にも常形なかるべし、此時趙兵二十萬と號す、漢兵數萬にたらず、其上皆あつまり勢にて決戰の心なし、韓信これによりて水にそむきて陳せしめたり、水に背きて陳するは死地なり、
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史記 孫子呉起列伝孫武既に死し、後百余歳して孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生まる。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得たり。而れども自ら以為らく、能は孫臏に及ばず、と。乃ち陰かに孫臏を召さしむ。臏至り、龐涓、其の己より賢なるを恐れ、之を疾む。則ち法刑を以て其の両足を断ちて之を黥し、隠れて見る勿らんことを欲す。
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