長短経 / 変通
孫子曰、“善動敵者、形之、敵必從之。”何以明之?魏與趙攻韓、齊田忌為將而救之、直走大梁。魏將龎涓去韓而歸、齊軍已過而西矣。孫臏謂田忌曰“彼三晉之兵、素悍勇而輕齊、齊號為怯。善用兵者、因其勢而利導之。兵法曰、‘百里而趨利者、蹷其將軍。’使齊軍入魏地為十萬竈、明日為五萬竈、明日為二萬竈。”涓喜曰、“吾固知齊卒怯也。入吾地三日、士卒亡已過半。”乃棄其步兵、與輕鋭倍日并行逐之。臏度其暮至馬陵、道狹而多險、可伏兵。乃斫大樹白書之曰、龎涓死此樹下。”令善射者萬弩夾道而伏、期曰、“見火舉而發。”涓夜至斫木下、見白書、乃鑚火燭之、讀書。齊軍萬弩俱發、魏軍大亂、涓乃自剄、曰、“果成豎子之名也。”
新字:孫子曰、“善動敵者、形之、敵必従之。”何以明之?魏与趙攻韓、斉田忌為将而救之、直走大梁。魏将龐涓去韓而帰、斉軍已過而西矣。孫臏謂田忌曰“彼三晋之兵、素悍勇而軽斉、斉号為怯。善用兵者、因其勢而利導之。兵法曰、‘百里而趨利者、蹷其将軍。’使斉軍入魏地為十万竈、明日為五万竈、明日為二万竈。”涓喜曰、“吾固知斉卒怯也。入吾地三日、士卒亡已過半。”乃棄其歩兵、与軽鋭倍日并行逐之。臏度其暮至馬陵、道狭而多険、可伏兵。乃斫大樹白書之曰、龐涓死此樹下。”令善射者万弩夾道而伏、期曰、“見火舉而発。”涓夜至斫木下、見白書、乃鑚火燭之、読書。斉軍万弩倶発、魏軍大乱、涓乃自剄、曰、“果成豎子之名也。”
書き下し
孫子曰く「善く敵を動かす者は、之に形すれば、敵必ず之に従う」と。何を以て之を明らかにせん。魏、趙と韓を攻む。斉の田忌将と為りて之を救い、直ちに大梁に走る。魏の将龐涓、韓を去りて帰る。斉の軍已に過ぎて西す。孫臏、田忌に謂いて曰く「彼の三晋の兵は、素より悍勇にして斉を軽んず。斉は号して怯と為す。善く兵を用うる者は、其の勢いに因りて之を利導す。兵法に曰く『百里にして利に趨く者は、其の上将軍を蹶す』と。斉の軍をして魏の地に入りて十万竈を為らしめ、明日は五万竈を為り、明日は二万竈を為らしめよ」と。涓喜びて曰く「吾固より斉の卒の怯なるを知る。吾が地に入りて三日にして、士卒の亡ぐる者已に半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩兵を棄て、軽鋭と日を倍にし行を并せて之を逐う。臏、其の暮れに馬陵に至るを度る。道狭くして険多く、兵を伏すべし。乃ち大樹を斫りて白くして之に書して曰く「龐涓此の樹の下に死す」と。善く射る者をして万弩もて道を夾みて伏せしめ、期して曰く「火の挙がるを見て発せよ」と。涓、夜斫木の下に至り、白書を見て、乃ち火を鑽りて之を燭し、書を読む。斉の軍万弩俱に発す。魏の軍大いに乱る。涓乃ち自剄して、曰く「果たして豎子の名を成せり」と。
現代語訳
孫子は「敵を動かすのが上手な者は、形を見せれば敵は必ずそれに従う」と言う。何によってこれを明らかにするか。魏が趙とともに韓を攻めた。斉の田忌が将となって韓を救い、まっすぐ魏の都大梁に向かった。魏の将龐涓は韓を去って引き返したが、斉軍はすでに通り過ぎて西へ進んでいた。孫臏は田忌に言った。「三晋の兵はもともと勇猛で斉を軽んじ、斉は臆病だと言われています。兵を用いるのが上手な者は、その勢いに乗って有利に導きます。兵法に『百里先の利を目指して急ぐ者は上将軍を倒される』とあります。斉軍に魏の地に入ったら竈を十万作らせ、翌日は五万、その翌日は二万にさせてください」。龐涓は喜んで言った。「斉の兵が臆病なことは知っていた。わが地に入って三日で、逃げた兵がもう半分を超えている」。そこで歩兵を置き去りにし、身軽な精兵だけで昼夜兼行で追った。孫臏は、龐涓が日暮れに馬陵に着くと見積もった。道は狭く険しく、伏兵を置ける。そこで大木の皮を削って白くし「龐涓はこの木の下で死ぬ」と書いた。弓の名手に一万の弩を持たせて道の両側に伏せ、「火が上がるのを見たら射よ」と命じた。龐涓は夜、その木の下に着き、白い書き付けを見て火をつけて照らし、字を読んだ。斉軍の一万の弩が一斉に放たれ、魏軍は大いに乱れた。龐涓は自ら首をはね、「ついにあの小僧に名を成させてしまった」と言った。
解説

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『智囊』詭道・孫臏・虞詡魏の龐涓、韓を攻む。斉の田忌、韓を救い、直ちに大梁に走る。涓これを聞き、韓を去りて帰る。斉軍は已に過ぎて西せり。孫子、田忌に謂いて曰く、「彼の三晋の兵は、素より悍勇にして斉を軽んじ、斉は号して怯と為す。善く戦う者は、其の勢いに因りてこれを利導す。兵法に、『百里にして利に趣く者は上将を蹷し、五十里にして利に趣く者は軍の半ばのみ至る』と」と。斉軍をして魏の地に入らしめ、十万の灶を為り、明日は五万の灶を為り、又明日は三万の灶を為らしむ。涓行くこと三日、大いに喜びて曰く、「吾固より斉軍の怯なるを知れり。我が地に入ること三日、士卒の亡ぐる者半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩軍を棄て、其の軽鋭と兼程してこれを逐う。孫子、其の行を度るに、暮に当に馬陵に至るべし。馬陵の道は狭くして、旁らに阻隘多く、兵を伏すべし。乃ち大樹を斲りて、白くしてこれに書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉軍の善く射る者万弩をして道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見れば、俱に発せよ」と。涓果たして夜に斲木の下に至り、白書を見て、乃ち火を鑽りてこれを燭す。読むこと未だ畢らざるに、斉軍の万弩俱に発す。魏軍乱れ、大敗し、龐涓自剄す。〔李温陵曰く〕「世に豈に十万の師の、三日の内に減じて三万に至りて、猶お其の計を知らざる者有らんや」と。
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史記 孫子呉起列伝後十三歳、魏と趙、韓を攻む。韓、急を斉に告ぐ。斉、田忌をして将として往かしめ、直ちに大梁に走る。魏の将龐涓、之を聞き、韓を去りて帰る。斉の軍既に已に過ぎて西す。孫子、田忌に謂ひて曰く、「彼の三晋の兵は素悍勇にして斉を軽んじ、斉をば号して怯と為す。善く戦ふ者は其の勢いに因りて之を利導す。兵法に、百里にして利に趣く者は上将を蹶し、五十里にして利に趣く者は軍半ば至る、と。斉の軍をして魏の地に入りて十万の竈を為り、明日五万の竈を為り、又明日三万の竈を為らしめよ」と。龐涓、行くこと三日、大いに喜びて曰く、「我固より斉の軍の怯なるを知る。吾が地に入りて三日、士卒の亡ぐる者半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩軍を棄て、其の軽鋭と倍日并行して之を逐ふ。孫子、其の行を度るに、暮に当に馬陵に至るべし、と。馬陵の道陜くして旁ら阻隘多く、兵を伏す可し。乃ち大樹を斫り白げて之に書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉の軍の善く射る者萬弩をして、道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見て倶に発せよ」と。龐涓果たして夜、斫木の下に至り、白書を見、乃ち火を鑽りて之を燭す。其の書を読むこと未だ畢らざるに、斉の軍の萬弩倶に発す。魏の軍大いに乱れて相ひ失す。龐涓、自ら智窮まり兵敗るるを知り、乃ち自剄して曰く、「遂に豎子の名を成せり」と。斉、因りて勝ちに乗じて尽く其の軍を破り、魏の太子申を虜にして以て帰る。孫臏、此れを以て名、天下に顕れ、世、其の兵法を伝ふ。
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(三)その明日は五萬竈、又明日は三萬竈と、日々にかまどの數を減じて、軍行の跡に遺しけり、さる程に龐涓齊の師の後を追てをしけるが、是を見て大によろこびていひけるは、我もとより齊の師怯き事をしる、いかになれば吾地に入事三日にして、士卒のにくるもの既に過半に及べり、いざ急に追つめんとて、其日步軍をすてヽ、騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり、孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし、馬陵は傍に阻隘多くして兵を伏すべし、こヽに龐涓を討取べしと思ひつヽ、大樹を斫り白けて、龐涓此樹下に死なんと大書したり、さて善射るものをすぐり、萬弩をそろへて道を夾て伏さしめ、それ等と約して、暮に火の高く擧るを見て、萬弩一度におこれと、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く擧て燭しけるに、其書をよみて未畢に萬弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自刎て、遂に竪子が名をなしつといひて死にけり、龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず、曾子の戒之戒之出乎爾者反乎爾者也との給ひしこそ思ひあたりしが、聖賢の言いつかたがひ待るべき、
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(二)これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虛に乘ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてヽ、歸らざる事を得べき、これによりて見れば、前にいひしごとく形にはめきをひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし、孫臏が魏を伐て趙の國をとくにて、その形勢に熟するをしるべし、さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、をのづから解ることをすといへり、形にはむれば、敵必形にさヽへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、をのづから我計中に墮るぞかし、後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於齊しかば、田忌又將兵として、前に趙を救しごとくすぐに大梁に赴きけり、魏將龐涓是を聞て韓を捨て歸る程に、齊師とくに行過て先にあり、孫臏田忌にいふやう、三晉の兵素より勇悍にして齊を怯とす、善戰者は敵の勢によりて、その勢のまヽに態と利導して、己が思ふ圖に引付るぞかし、兵法に百里而趣利者蹶上將といへり、さらばいよいよ魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、齊の師魏の境に入て、始て一舍する日は十萬竈をなし、
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『智囊』制勝・孫臏魏は趙を伐ち、趙は急に救いを斉に請う。斉の威王は孫臏を将とせんと欲するも、臏は刑余を以て辞す。乃ち田忌を将とし、孫子を師として、輜車の中に居らしめ、坐して計謀を為さしむ。田忌は兵を引きて趙を救わんと欲す。孫子曰く、「夫れ紛を解く者は拳を控かず、闘いを救う者は撠を搏たず。亢を批し虚を搗き、形格し勢禁ずれば、則ち自ら解くるのみ。今、梁、趙は相攻め、軽兵鋭卒は必ず外に尽き、老弱は内に罷る。君は兵を引きて疾く大梁に走り、その方に虚なるを衝くに若かず。彼は必ず趙を釈てて自ら救わん。これ我は一挙にして趙の困を解き、而して弊を魏に収むるなり。」と。忌はこれに従い、魏は果たして邯鄲を去り、斉と桂陵に戦い、大いに梁の軍を破る。