駿台雑話 / 孫臏韓信が兵法二
これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虛に乘ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてヽ、歸らざる事を得べき、これによりて見れば、前にいひしごとく形にはめきをひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし、孫臏が魏を伐て趙の國をとくにて、その形勢に熟するをしるべし、さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、をのづから解ることをすといへり、形にはむれば、敵必形にさヽへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、をのづから我計中に墮るぞかし、後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於齊しかば、田忌又將兵として、前に趙を救しごとくすぐに大梁に赴きけり、魏將龐涓是を聞て韓を捨て歸る程に、齊師とくに行過て先にあり、孫臏田忌にいふやう、三晉の兵素より勇悍にして齊を怯とす、善戰者は敵の勢によりて、その勢のまヽに態と利導して、己が思ふ圖に引付るぞかし、兵法に百里而趣利者蹶上將といへり、さらばいよいよ魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、齊の師魏の境に入て、始て一舍する日は十萬竈をなし、
新字:これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虚に乗ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてヽ、帰らざる事を得べき、これによりて見れば、前にいひしごとく形にはめきをひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし、孫臏が魏を伐て趙の国をとくにて、その形勢に熟するをしるべし、さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、をのづから解ることをすといへり、形にはむれば、敵必形にさヽへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、をのづから我計中に堕るぞかし、後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於斉しかば、田忌又将兵として、前に趙を救しごとくすぐに大梁に赴きけり、魏将龐涓是を聞て韓を捨て帰る程に、斉師とくに行過て先にあり、孫臏田忌にいふやう、三晋の兵素より勇悍にして斉を怯とす、善戦者は敵の勢によりて、その勢のまヽに態と利導して、己が思ふ図に引付るぞかし、兵法に百里而趣利者蹶上将といへり、さらばいよいよ魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、斉の師魏の境に入て、始て一舎する日は十万竈をなし、
書き下し
これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虛に乘ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてヽ、歸らざる事を得べき、これによりて見れば、前にいひしごとく形にはめきをひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし、孫臏が魏を伐て趙の國をとくにて、その形勢に熟するをしるべし、さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、をのづから解ることをすといへり、形にはむれば、敵必形にさヽへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、をのづから我計中に墮るぞかし、後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於齊しかば、田忌又將兵として、前に趙を救しごとくすぐに大梁に赴きけり、魏將龐涓是を聞て韓を捨て歸る程に、齊師とくに行過て先にあり、孫臏田忌にいふやう、三晉の兵素より勇悍にして齊を怯とす、善戰者は敵の勢によりて、その勢のまヽに態と利導して、己が思ふ圖に引付るぞかし、兵法に百里而趣利者蹶上將といへり、さらばいよいよ魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、齊の師魏の境に入て、始て一舍する日は十萬竈をなし、
現代語訳
これは趙を救いながら、趙を救うと見せず、魏を攻める形をもって示し、虚に乗じる急迫の勢いで迫ったので、魏の軍がどうして趙を捨てて帰らずにいられましょう。これによって見れば、前に言ったように、形にはめ勢いに乗せれば、自分の兵だけでなく、敵を制することも掌の中にあるようなものです。孫臏が魏を討って趙の囲みを解いたことで、その形勢に熟していたことが分かります。それゆえ孫臏も「形格勢禁ずれば、おのずから解ける」といっています。形にはめれば、敵は必ず形に支えられ、勢いに乗せれば、敵は必ず勢いにせかれて自由を得ず、おのずからこちらの計略の中に落ちるのです。その後十五年して、魏が韓を攻めた時、韓が斉に急を告げたので、田忌がまた将として兵を率い、前に趙を救ったときのようにまっすぐ大梁に赴きました。魏の将の龐涓はこれを聞いて韓を捨てて帰りましたが、斉の軍はとうに行き過ぎて先にいました。孫臏が田忌に言うには、三晋の兵はもとより勇ましく、斉を臆病とみなしています。戦上手は敵の勢いによって、その勢いのままにわざと利導し、自分の思う図に引きつけるものです。兵法に「百里にして利を趣う者は上将を蹶す」といいます。それならば、いよいよ魏を驕らせて百里のうちに利を追わせようと、斉の軍は魏の領内に入って、最初に宿営した日は十万の竈を作り、
解説
この章句が説くこと
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(一)されど孫武が兵法、其書ありといへども、自から兵を用ひて敵を料り勝ことを制するをきかず、そのかみ吳王闔閭に用られ、十三篇をも吳王に傳授せし事、史記孫子が傳に見へたり、闔閭西のかた强楚を破て郢に入、兵威諸國に振ひしは、定めて孫武が謀より出たる事にてあらんかし、その事實世に傳らねばしるべきやうなし、孫武が後、孫武が兵法をもちゐて、其功天下に著れしは、孫臏韓信のふたりにてなむありけり、孫臏は孫武が子孫なりしが、先祖の兵法を傳へて、齊の威王の師となる、此時魏より齊の與國趙を圍しを、威王將田忌に孫臏をさし副て趙を救はしむ、孫臏は其前に魏將龐涓と、もに兵法を學びしが、龐涓その能を嫉て、陰に臏を召て至れば其兩足を斷ちし程に、此度もたヾ車中に坐て軍の指圖をしけり、田忌すぐに趙へゆかむといひしを、孫臏とヾめて、魏趙久しく相攻ぬれば、魏の輕兵銳卒必外に竭し、老弱運漕して内に罷るヽを謀ていふやう、趙に至らんよりは、速に魏都大梁に赴て其虛を衝んにはしかじ、かれ我國の危きをきかば、必趙をすてヽ歸て自救む、しからばわれ一擧して、趙の圍をとくのみならず、その弊を魏に收るなりとて、直に大梁に向ひしかば、魏師果して趙を捨て還りけるを、迎へ擊て大に勝利を得たり、
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『駿台雑話』孫臏韓信が兵法(三)その明日は五萬竈、又明日は三萬竈と、日々にかまどの數を減じて、軍行の跡に遺しけり、さる程に龐涓齊の師の後を追てをしけるが、是を見て大によろこびていひけるは、我もとより齊の師怯き事をしる、いかになれば吾地に入事三日にして、士卒のにくるもの既に過半に及べり、いざ急に追つめんとて、其日步軍をすてヽ、騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり、孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし、馬陵は傍に阻隘多くして兵を伏すべし、こヽに龐涓を討取べしと思ひつヽ、大樹を斫り白けて、龐涓此樹下に死なんと大書したり、さて善射るものをすぐり、萬弩をそろへて道を夾て伏さしめ、それ等と約して、暮に火の高く擧るを見て、萬弩一度におこれと、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く擧て燭しけるに、其書をよみて未畢に萬弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自刎て、遂に竪子が名をなしつといひて死にけり、龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず、曾子の戒之戒之出乎爾者反乎爾者也との給ひしこそ思ひあたりしが、聖賢の言いつかたがひ待るべき、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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