素書 / 『素書』己を正して人を化す
釋己而教人者逆、正己而化人者順、逆者難從、順者易行、難從則亂、易行則理。如此、理身、理家、理國、可也。右第六章、言安而履之謂禮。
新字:釈己而教人者逆、正己而化人者順、逆者難従、順者易行、難従則乱、易行則理。如此、理身、理家、理国、可也。右第六章、言安而履之謂礼。
書き下し
己を釈てて人を教うる者は逆、己を正して人を化する者は順なり。逆なる者は従い難く、順なる者は行い易し。従い難ければ則ち乱れ、行い易ければ則ち理まる。此くの如くんば、身を理め、家を理め、国を理むること、可なり。右第六章、安んじて之を履む、之を礼と謂うを言う。
現代語訳
自分を棚に上げて人を教える者は道理に逆らい、自分を正して人を感化する者は道理に順います。逆らうやり方は従い難く、順うやり方は行いやすい。従い難ければ乱れ、行いやすければ治まります。このようにすれば、自身を治め、家を治め、国を治めることができます。以上が第六章で、安らかな気持ちでこれを実践することを礼という、という意味です。
解説
全六章の最後を飾る短い結びです。自分を棚に上げて人を教えるのは逆、己を正して人を感化するのは順とし、前者は従い難く乱れ、後者は行いやすく治まると、因果を簡潔に示します。そして身を治め、家を治め、国を治めるという順に拡がる、という『大学』にも通じる発想で閉じます。現代のマネジメントでは、言葉より先に自分が範を示すことの有効性を述べた箇所と読めます。部下に求める行動を、まず自分が日常で実践しているか。冒頭の「道徳仁義礼」へ立ち返らせる、全体のまとめにふさわしい一節です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
己を正す化す順逆身家国理礼
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