春秋左氏伝 / 哀公十四年 皇野の計
既食。又奏。公曰。可矣。以乘車往。曰。跡人來告。曰。逢澤有介麇焉。公曰。雖魋未來。得左師吾與之田。若何。君憚告子。野曰。嘗私焉。君欲速。故以乘車逆子。與之乘。至。公告之故。拜不能起。司馬曰。君與之言。公曰。所難子者。上有天。下有先君。對曰。魋之不共。宋之禍也。敢不唯命是聽。司馬請瑞焉。以命其徒攻桓氏。其父兄故臣曰。不可。其新臣曰。從吾君之命。遂攻之。子頎騁而告桓司馬。司馬欲入。子車止之。曰。不能事君。而又伐國。民不與也。祇取死焉。向魋遂入于曹。以叛。
新字:既食。又奏。公曰。可矣。以乗車往。曰。跡人来告。曰。逢沢有介麇焉。公曰。雖魋未来。得左師吾与之田。若何。君憚告子。野曰。嘗私焉。君欲速。故以乗車逆子。与之乗。至。公告之故。拝不能起。司馬曰。君与之言。公曰。所難子者。上有天。下有先君。対曰。魋之不共。宋之禍也。敢不唯命是聴。司馬請瑞焉。以命其徒攻桓氏。其父兄故臣曰。不可。其新臣曰。従吾君之命。遂攻之。子頎騁而告桓司馬。司馬欲入。子車止之。曰。不能事君。而又伐国。民不与也。祇取死焉。向魋遂入于曹。以叛。
書き下し
既に食して、又奏す。公曰く、「可なり」と。乘車を以て往きて曰く、「跡人來り告げて曰く、『逢澤に介麇有り』と。公曰く、『魋未だ來らずと雖も、左師を得ば吾之と田せん。若何』と。君子に告ぐるを憚る。野曰く、『嘗みに焉を私せん』と。君速やかにせんと欲す。故に乘車を以て子を逆ふ」と。之と乘る。至る。公之に故を告ぐ。拜して起つ能はず。司馬曰く、「君之と言へ」と。公曰く、「子を難(なや)ます所の者は、上に天有り、下に先君有り」と。對へて曰く、「魋の共ならざるは、宋の禍なり。敢へて唯だ命を是れ聽かざらんや」と。司馬瑞を請ひ、以て其の徒に命じて桓氏を攻めしむ。其の父兄故臣曰く、「不可なり」と。其の新臣曰く、「吾が君の命に從はん」と。遂に之を攻む。子頎騁せて桓司馬に告ぐ。司馬入らんと欲す。子車之を止めて曰く、「君に事ふる能はずして、又國を伐たば、民與せず。祇だ死を取らんのみ」と。向魋遂に曹に入りて以て叛く。
現代語訳
食事が終わると、また音楽を奏でた。景公は「今だ」と言った。皇野は公の乗用車で左師のもとへ行き、言った。「猟場の番人が来て『逢沢に大きな鹿が一頭おります』と告げました。公は『魋はまだ来ていないが、左師が来てくれるなら一緒に狩りをしたい。どうだろうか』とおっしゃいましたが、あなたに告げるのを遠慮しておられました。そこで私、野が『ひとまず私から内々にお伝えしてみましょう』と申し上げたのです。公はお急ぎですので、公の乗用車であなたをお迎えに参りました」。左師は皇野とともに車に乗り、宮中に着いた。景公が事の次第を告げると、左師は(驚き恐れて)拝伏したまま立ち上がれなかった。司馬(皇野)が「君からお言葉をおかけください」と言うと、景公は言った。「もしそなたを苦しめるようなことをすれば、上には天が、下には先君がそれを見ておられよう(決してそなたに害は及ぼさない)」。左師は答えた。「魋が恭順でないのは宋の禍です。どうしてご命令に従わないことがありましょう」。司馬は命令のしるしとなる瑞玉を請い受け、それで配下に命じて桓氏を攻めさせた。家の父兄や古くからの家臣は「いけません」と言ったが、新しい家臣たちは「わが君の命令に従おう」と言い、ついに攻撃した。子頎(桓魋の弟)が馬を走らせて桓司馬(桓魋)に知らせた。桓魋は都に入って(公を)攻めようとしたが、弟の子車が止めて言った。「君に仕えることができなかったうえに国を攻めれば、民は味方しません。ただ死を招くだけです」。向魋はそこで曹の邑に入って叛いた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 韓長孺列伝其の明年、則ち元光元年、鴈門の馬邑の豪聶翁壹、大行王恢に因りて上に言ひて曰く、「匈奴初めて和親し、辺を親信す。誘ふに利を以てすべし」と。陰かに聶翁壹をして間を為さしめ、亡げて匈奴に入り、単于に謂ひて曰く、「吾能く馬邑の令丞吏を斬り、城を以て降らん。財物尽く得べし」と。単于愛して之を信じ、以て然りと為し、聶翁壹に許す。聶翁壹乃ち還り、詐りて死罪の囚を斬り、其の頭を馬邑の城に県け、単于の使者に示して信と為す。曰く、「馬邑の長吏已に死せり。急に来るべし」と。是に於て単于塞を穿ちて十余万騎を将ゐ、武州の塞に入る。是の時に当たり、漢は車騎材官二十余万を伏せ、馬邑の旁の谷中に匿す。衛尉李広驍騎将軍と為り、太僕公孫賀軽車将軍と為り、大行王恢将屯将軍と為り、太中大夫李息材官将軍と為る。御史大夫韓安国護軍将軍と為り、諸将皆護軍に属す。約すらく、単于馬邑に入らば漢の兵縦発せんと。王恢・李息・李広は別に代より主として其の輜重を撃たんとす。是に於て単于漢の長城武州の塞に入る。未だ馬邑に至らざること百余里、行きて掠鹵するに、徒だ畜の野に牧せらるるを見て、一人を見ず。単于之を怪しみ、烽燧を攻めて、武州の尉史を得たり。尉史を刺問せんと欲す。尉史曰く、「漢の兵数十万馬邑の下に伏す」と。単于顧みて左右に謂ひて曰く、「幾ど漢の売る所と為らんとす」と。乃ち兵を引きて還る。塞を出でて、曰く、「吾尉史を得たるは、乃ち天なり」と。尉史に命じて「天王」と為す。塞下に伝へ言ふ、単于已に引き去ると。漢の兵追ひて塞に至り、及ばざるを度りて、即ち罷む。王恢等の兵三万、単于の漢と合はざるを聞き、往きて輜重を撃たば、必ず単于の精兵と戦はん、漢の兵勢必ず敗れんと度り、則ち便宜を以て兵を罷む。皆功無し。天子王恢の出でて単于の輜重を撃たずして、擅に兵を引きて罷むるを怒る。
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『甲陽軍鑑』品第六武略をもつて治むるは武士の第一のほまれと云ふ然れば計略にしたをさるゝは、女人にあひ似たる事也、侍が二心あるをばかたましき男とて武士にはきらふぞかし、十が九義元うたれ玉ふと存する共、敵方より告来らば虚言と相心得此城を立さらざるは武士にめづらしからぬ作法也、
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